体温




明け方から降り始めた雨は昼近くになっても止む事はなく、雲は相も変わらず暗い色で頭上を覆い尽くしている。
今日は雨は止みそうにないと、その日の鍛錬を諦めた夏侯惇は自室に戻ろうとして足を止めた。
目の前の廊下を侍女達が毛布や水の入った桶を抱えてあわただしく通るのを見て、一人の侍女を捕まえ何事かと問う。
様が具合を悪くして休んでおられるのです。ここのところ特に寒かったのでお体に障ったようで…」
侍女はそう答えて夏侯惇に一礼し、彼女の自室の方へと足早に去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、夏侯惇は見舞いに行くべきかどうか暫く悩んでいたが、寝込んでいる女性の部屋に行くのはどうかと思い直して自室へと足を向ける。
そんな夏侯惇の前方から良く知った顔がやってきて、彼は顔をしかめて足を止めた。
「どこへ行く、孟徳」
前方からやってきたのは魏にその人ありと言われる曹操孟徳その人。
「おお!元譲ではないか」
曹操は夏侯惇の姿を認めると、笑みを浮かべて側にやってきた。
「この先にはの寝所しかないぞ。どこに行くつもりだ」
「そのの寝所だ」
女性の寝所に行くのを躊躇う夏侯惇の気持ちを知ってか知らずか、曹操はあっけらかんと言ってのける。
「何の用だ」
が具合を悪くしていると聞いたのでな。その見舞いだ。お主も聞いておろう?」
「やめておけ。お前が行くと治るものも治らん」
「失敬だな。儂は有能な部下を心配しているのだぞ」
そう言ってから、曹操は笑みを浮かべて夏侯惇を見やる。
「お主は行ってやらぬのか?が体調を崩して心細くしているかも知れぬというのに」
「お……俺は…」
「まさか元譲、お主『女性の寝所に入るのはどうかと…』などと思っているのではなかろうな?」
まさにそう思っていた夏侯惇の気持ちを読んだわけではないだろうが、曹操は意地の悪い笑みを浮かべて夏侯惇を見ている。
何も言い返さない夏侯惇に、曹操は大きなため息をついた。
「お主もどこまで真面目でどこまでのん気なのだ…」
大げさな身振りで頭を抱えてみせる。
「お主がそんなでは、は遠からず別の誰かのものになるかも知れぬな…」
「な…何を言っている孟徳!?俺は別にを自分のものにしたいなどと…!!」
そこまで言った夏侯惇は自分が何を言っているのかに気付いてはっと口を閉ざした。
曹操はそんな夏侯惇をにやにやと笑みを浮かべて眺めている。
「大体自身のものだ。誰かのものになるなどと…に失礼だろう」
「分かった分かった。分かったからの様子を見に行って参れ。これは儂からの命令だ」
「な…何故俺が…。部下が心配なら自分で行けばよかろう」
言ってから夏侯惇は自分の言葉を悔いた。曹操は嫌な笑みを浮かべている。
「そうかそうか。儂が行って良いのだな」
「待て孟徳、やはり俺が行く」
曹操の腕を掴んで引き止めると夏侯惇は覚悟を決めての寝所に足を向けた。
「見舞いが済んだらの様子を知らせるのだぞ。これは命令だ」
怪訝そうな顔で曹操を振り返る夏侯惇に、曹操は言い放った。
「そうでもしないとお主はの寝所の前で何時間でも立っていそうだからな!」
何も言い返せない夏侯惇を置いて曹操は来た道を戻って行った。
曹操に報告をしなければならないという義務感に頼っている自分を情けなく思いながらも、夏侯惇は彼女の寝所までやってくる。
丁度中から侍女達が引き上げて出てきた。
「夏侯惇様…お見舞いでございますか?」
「ああ…孟徳にも頼まれてな。入っても構わぬだろうか?」
結局曹操を言い訳に使っている己に内心溜息を洩らしながら、それでも表面上は平然とした姿で侍女に尋ねる。
「はい。大分熱も下がられました。私達は一度引き上げますので、どうぞお側にいて差し上げてください。少し気が弱っているようですから」
「そうか、わかった。ご苦労だったな」
侍女達が去っていくのを見送ってから、夏侯惇はの寝所に足を踏み入れた。
侍女達と入れ替わりに誰かが入ってきたのを感じ取ったのか、寝台の上で身を起こそうとしている彼女を見て、夏侯惇は早足で近寄るとその肩を押さえる。
「寝ていろ。まだ治ってはいないのだろう」
「夏侯惇殿…」
その人物が誰であるのかを確認したの体温がまた上がったようだった。
「申し訳ありません。このような見苦しい格好で…」
「構わん。今はしっかり体を休めることだ。みんな心配している」
「はい…。お心遣い、痛みいります」
大人しく寝台に体を横たえた彼女を見て、夏侯惇も手近な椅子を引き寄せて腰を下ろす。
改めてその様子を見た夏侯惇は、やはり来なければ良かったかと僅かに後悔した。
熱の為に頬は僅かに上気し、瞳も潤んでいる。そのような状態のの元に曹操を遣らないで良かったと思う反面、夏侯惇が彼女を直視できるはずもなく。
黙り込んでしまった夏侯惇に、が恐る恐る声をかける。
「夏侯惇殿も呆れてておいでですか?武将ともあろう者が自己の体調管理さえできていないかと…」
「いや…そのようには思っていない。いらぬ心配をする前にしっかり養生するがいい」
慌てて言いつくろう夏侯惇を見て、彼女は微かに笑みを浮かべた。
「どうもいけませんね。体も弱ると心も弱るのでしょうか。余計な心配ばかりしてしまいます」
先程の侍女の言葉を思い出した夏侯惇は、極力優しい手つきで彼女の頬を撫で、汗で額に張り付く髪をよけてやった。
「お前はいつも気を張りすぎているのだ。たまにはゆっくり休め。特にこういう時くらいはな…」
「お優しいのですね、夏侯惇殿は…」
が微笑む。
「お前にだけだ…」
小さく呟いたその言葉は、だが彼女の耳には届かなかった。
「今、なんと?」
「いや、いいんだ。お前は寝ていろ」
誤魔化す様にの額に手を当てて熱をみる。心なしか先程頬に触れた時より体温が上がっているような気がして、夏侯惇は気が引けた。
「少し熱が上がったんじゃないのか?」
言われて、も自分の額に手を置いてみる。
「ゆっくり休め。俺はそろそろ失礼しよう。見舞いに来たはずがお前の病状を悪化させたとあっては他の者達に何を言われるか分かったものではない」
そう言って部屋を退出するはずだったが、がそうはさせてくれなかった。
「どうか、夏侯惇殿…もう少しだけいてくださいませ」
気付くと、華奢な手が夏侯惇の袍の裾を握っている。
寂しそうな瞳で見つめられてしまえば夏侯惇といえども逆らえるはずもなく、今まで座っていた椅子に再び腰を下ろした。
「どうした?いつものお前らしくないな」
普段は男ばかりの中で唯一の女武将として凛とした姿でいる彼女からは想像し難いような今の姿に、夏侯惇は表情を曇らせる。
「申し訳ありません…夏侯惇殿に呆れられるのも無理もない事ですが…」
は苦笑した。一応、今の自分の状況は把握しているようである。
「どうも人恋しくなって仕方がないのです…夏侯惇がいらしてくださるから余計に…」
「俺が来たから…?」
「貴方がいらしてくださるから…お優しい貴方だから…つい甘えてしまいます」
の頬が上気したのは熱のせいだけではないようだった。
「……俺が…優しくしたいと思わせるのはお前だけだ。孟徳や他の者にはそうしたいとは思わぬ」
夏侯惇が告げると、は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。ですから、私も貴方だけに甘えたいと思うのです、夏侯惇殿」
その言葉に、夏侯惇も体温を上昇させた。
「お前と言うやつは…俺にも熱を上げさせる気か?」
小さく笑った彼女の手をとって、自分の手の中に包み込むと、夏侯惇は言う。
「寝付くまでここにいてやるから…安心して休め」



そうして翌日、の寝台の側でつい寝てしまった夏侯惇を侍女達が見つける事になるのである。



20100621加筆修正

お題は[ドリーマーに100のお題]様よりお借りしました。*現在リンク切れです