しとしとと穏やかな雨。
こんな日は決まって貴方が現れる。



雨音の君




「文遠殿」
不意に声をかけられて振り返れば愛しい人の姿がある。いつものようになんの前触れもなく、ひっそりと佇む細い影。
「まったく…貴女が敵だったら某は何度命を取られているか知れませんな」
張遼は苦笑しながら彼女に近付き、その華奢な手を取る。
「文遠殿程の猛将にも気取られないならば、私もまだまだいけますね」
そう笑うの手の甲に唇を落として張遼は優しく微笑んだ。
「ご無事に戻られて何よりです。暫くはゆっくりしていかれるのですかな?」
「この雨が止むまでは文遠殿のお側に」
いつものやりとりに張遼はまた苦笑し、今度は殊更に愛情を込めて彼女の手の甲に唇を落とす。
そしてその手を優しく引いて、彼女を自分の室に招いた。



は曹操お抱えの間者だ。代々曹家に仕えている。女でありながら優秀である彼女は曹操の信頼も厚く、それ故に命を受けてあちこちと飛び回る事が多い。
初めて出会ったのは、張遼が曹操の元に身を寄せて直ぐの静かな雨の日だった。
黒装束に身を包んだ彼女を、張遼はてっきり敵方の間者かと思ったのだが、それにしては堂々と城内を歩くので思いきって声をかけたのだ。
先代に付き従い幼い頃から曹操とその一族を見知っていたにとって新参であった張遼の存在は新鮮に移り、また、曹操軍に未だ馴染めずにいた張遼にとって武将達とは違った立場に居る彼女はとっつきやすい存在であった。
そんな二人が互いに惹かれ合い、深い仲になるのにそう時間はかからなかった。
そして彼女はこうした静かな雨の日に張遼の前に姿を見せるのだ。
「此度はどこまで行ってこられたのですかな?」
「南の、孫権の方へ」
張遼の問いに応えながらは服の袂から何やら取り出した。
「お土産です。貴重なお茶なので量はないのですが、味は保証しますよ」
毎度毎度几帳面にも偵察先で張遼の為に土産を見繕ってくる優しい恋人の心が嬉しい。
「これは有難い。早速頂こう」
そう言って自ら茶の支度をするのは、短い会瀬の時を誰にも邪魔されたくないから。
程なくして良い香りを漂わせた茶器が二つ、卓に置かれた。
南方特有の香りと味を堪能しながら他愛も無い会話をやりとりしていたが、やがて茶器が空になるとどちらからともなく体を寄せ合った。
「この温もりも感覚も、久方ぶりですな」
の細い身体を抱き締めて、張遼はその存在を確かめるように腕に微かに力を込める。
「私は文遠殿の事を一日たりとも忘れた事はございませんよ」
「もちろん某もだ」
互いに笑い合って視線が交われば、どちらからともなく唇を寄せその感覚を味わった。
窓の外に耳を澄ませば、雨音が強まったのが分かる。
「もう暫くは共にいられそうですな」
意味ありげに口角を持ち上げた張遼には苦笑しつつ。それでも拒む事は無く、張遼に誘われるままに奥の室へと向かった。



* * *



遠退いていく雨足が恨めしい。姿を見せた時よりも雨が弱くなっていくのを感じながら、は着物を拾い上げた。
彼女を送り出すのが癪で、張遼は未だ寝台に身体を投げ出して、身支度を整える様子を見守っている。
「たまには、某から声をかけさせて欲しいものですな」
叶わないと知っていながら言う張遼に、は小さく苦笑する。
「文遠殿から声をかけて頂いたのは初めてお会いした時だけですね」
雨の日だけに会瀬が許されるのは、曹操の命かはたまた間者としての掟なのか。
張遼には知る由も無いが、きっとこれからも声をかけるのは彼女の方からなのだろう。雨の日だけに姿を見せ、愛しい男の名を呼ばわる。
「次の雨までご機嫌よう、文遠殿」
寝台に横たわる張遼に覆い被さるようにして口付けると、次の瞬間には黒装束に身を包んだ彼女の姿は消えている。
「愛しておりますぞ…。雨音の君…」
雨は完全に上がり、張遼の呟きは室に響いた。



過去に作ってた携帯サイトであげてたもののリサイクル。
20150201加筆修正