この旅が、運命を変えるものになるとは
この時私はまだ、知らなかったのだ



FLY AWAY FROM HERE・1




M県 S市 杜王町。
はこの町を知っていたわけでも、この町に別段思い入れがあったわけでもない。
彼女には確かに日本人の血が半分流れていたが、生まれはイタリアであり、一度も日本に来た事はないからだ。
ならば何故、彼女がこの町にやってきたかと言うと、それは彼女に流れる半分の、日本の血の為だ。
先日、日本人である彼女の母親が息を引き取った。
『出来る事ならば、もう一度、自分が生まれたあの町に行きたい』
生前そう言っていた母親の為に、彼女はチームに休みをもらって母の故郷であるこの町へと、遺骨を連れて来た。
出来る事なら母親の親族に遺骨を引き渡してあげたいとも思っていたが、頼りになるものは母親が遺した僅かな情報だけで、ほとんど手探りの状態だ。
遠く、イタリアの地へとやってきたばかりの母親もきっとこんな気持ちだったのだろうと、はひっそりと溜息をついた。
「それにしてもついてないわ…」
空港からバスやタクシーを乗り継いで杜王町に到着したものの、車を降りてから僅か数メートルのところで突然、ヒールが折れてしまった。
確かにここ最近、履き続けていた靴ではあったが、そこまで酷使した覚えは無いのに。靴の替えなど、持っている筈も無く。
「近くにお店があればいいんだけど」
兎に角靴を手に入れない事にはどうしようもない。
自分のスタンドで直せるものがあるならそうするのだが、生憎彼女のストックの中にはそのようなスタンドは無かった。
「どうかしたんスか?こんなところで座り込んで…」
途方に暮れていたところに声を掛けられ、が振り返るとなんとも奇抜な髪型の少年が気遣わしげにこちらを覗き込んでいる。
「うぉ、っと…外国人か?っべーな、英語は苦手だぜ…」
自分から声をかけたくせに、振り返った彼女が外国人である事に気付き、戸惑っている少年に思わず苦笑いを浮かべた。
彼女の髪は母親譲りの柔らかな黒髪だったから、後ろから声を掛けた少年は、まさか彼女が外国人だとは思わなかったのだろう。
もっとも、英語が出来たところではイタリア人なのだが。
「大丈夫よ、日本語はわかるわ。靴のヒールが折れてしまって困っていたところなの。近くにお店があれば教えて欲しいのだけど」
もちろん、日本に来た事が初めてな彼女が日本語をわかる筈も無く、少年と会話が成立しているのは彼女のスタンド能力のおかげなのだが、それはこの際関係の無いことだ。
それはさておき、声をかけた女性が日本語が出来るとわかった少年は、明らかにほっとした様子で彼女が手にしている靴に視線をやった。
そしてこう言ったのだ。
「オレ、直せるッスよ。ちょっと貸してもらえませんかね?」
この国の人は親切なのだな、とは思った。
そして、こうも思った。
見たところ靴職人には見えないし、靴を直せるような道具を持っているようにも見えないこの少年が、一体どうやって折れたヒールを直すのか、と。
不可解ではあったが好奇心の方が勝ったは、大人しく差し出された手にヒールの折れた靴を預けた。
靴を受け取った少年は、折れた部分を確かめているかのように踵の部分を撫でていたが、直ぐにそれをへと返してきた。
「ホラ、直りましたよ。これで大丈夫でしょ?」
戻ってきた靴は、確かにしっかりとヒールと踵がくっついていた。まるで、折れた事なんてなかったかのように。
「凄いのね。どうやったのかは判らないけど、助かったわ。ありがとう」
どうやったのかを尋ねるような野暮な真似はしなかった。
それに、彼女には見えていたのだ。靴を撫でる少年の腕が、ぶれていた――いや、もう一本腕があったのを。
(あれは、スタンドね…。間違いないわ)
まさか日本に来てまでスタンド使いと遭遇するハメになるとは思っていなかったが、兎に角靴は直ったので彼女としては何の問題も無かった。
彼に敵意があるとしたら既になんらかの攻撃を受けているだろうし、一度も訪れた事の無いこの国で、誰かの恨みを買っているとは考えづらい。
偶然通りがかった親切な少年が、偶然スタンド使いだった。ただ、それだけの事としては何事もなかったかのように、元通りになった靴を履きなおした。
「何から何まで申し訳ないんだけど、良かったらこの住所の場所を教えてくれない?」
ものはついでと言わんばかりに、は鞄から古くなって黄ばんだ手帳を取り出した。
母親の形見の一つである年期の入った手帳は日付は随分昔の物で、手帳のどこにもイタリア語は見受けられなかったから(手帳に元々印刷されている文字や、母親が書いたのであろう字ですら)、これは母親が日本から持ってきた物だと直ぐに理解した。
あちこちに何枚か写真が挟まっていたり、枠を無視して文字が書かれていたりしているから、半ば日記のように使っていたのだろう。
その最後のページに母は住所を書き付けており、確信も無かったがなんとなく、この場所が彼女が日本にいた頃の住まいなのだろうと思った。
他に手掛かりになるような物もなかったので、はこの手帳だけを頼りに杜王町へやってきた。
この場所に行けば、母親を知る者に、もしかしたら彼女の両親がいるのではないかと思って。
「ああ…この住所ならオレんちのすぐ傍ッスね。案内しますよ」
少年の言葉に、つくづく日本人は親切なのだと、そして自分はラッキーだなと、は思った。
この分なら、用事は直ぐに済みそうだと。そして、思ったよりも早くイタリアに帰れるかも知れない。
「でも…そこに何かあるんスか?」
彼女のトランクまで持ってくれた少年は、背が高い事もあるが、どこか紳士的なその振る舞いは、本当に生粋の日本人なのかと疑ってしまう。
後に彼にはイギリス系アメリカ人の血が混ざっていて、生粋の日本人ではない事が判明するのだが、それはまた別の話だ。
それはそうと、どこか訝しげに住所の事を尋ねて来た少年に、はほんの少しだけ疑問を抱いた。
彼の言い方は、まるでそこには何もないと言っているように聞こえたのだ。
この住所の場所に家があって人が住んでいるのなら、『何かあるのか』と言うような聞き方をするだろうか。
「…この手帳ね、あたしの母の形見なんだけど、この住所に書いてある場所が母の昔の住まいじゃないかと思うの」
一抹の不安を覚えながらそう話し出した彼女を見る少年の顔があからさまに曇って、は苦笑した。
前言撤回。どうやらこの様子では直ぐにイタリアには戻れそうにない。
「もう分かると思うけど、あたし、日本人の母とイタリア人の父がいたの」
イタリア人だったんスか…と呟いている少年の後を歩きながら、なんで自分は初対面の人間にこんな事を話しているのだろうと、不思議に思う。
だが、自分の事を多少話したところで何の問題も無い。
用事が済めば自分はイタリアに帰るのだし、そして彼とはもう二度と会う事もないだろう。
青春を謳歌している少年と、闇の世界にどっぷりと浸ってしまっている自分とは、住む世界が違い過ぎる。
そう思ったは口を閉じる事も無く、道すがらの暇つぶしとでも言う様に自分の事を話して聞かせていた。
父親は生まれて間もなく蒸発した事、母親もつい最近亡くなった事、日本にくるのは初めてだが母の遺骨を国に帰してやりたかった事。
どうでもいい様な、そして楽しくも無い話を、少年は気まずそうな表情で、それでも全て聞いてくれた。
「3、4年くらい前からッスかねえ〜…もう、誰も住んでなくて、荒れ放題になってるんスよ」
話が終わって彼女の声が途切れた時、少年は言いにくそうにそう言って、目の前に建っている荒れた空き屋を指差した。
その家の窓ガラスは殆ど割れており、屋根や壁にも雑草や蔦が伸びている。
塀には『立入禁止』の文字と不動産屋の電話番号が書かれた看板が掛けられており、人が住んでいないのはもちろん、ここ数年は人の手すら入っていないと言う事は、一目瞭然だった。
「困ったわね…こんなにも早く手掛かりを失ってしまうなんて」
荒れ放題の家の中に何か母親が住んでいた頃の手掛かりがあるとも思えず、は早々に、家の中に入ってみると言う考えを捨てていた。
だがこれと言って他の情報があるわけでも無く、まさか母親が住んでいたらしき家がこんな事になっているとは思ってもいなかったは、この先どうしたものかと頭を捻り始めていた。
「あのォ〜もし良かったらなんスけどね、うちのおふくろに聞いてみるってのはどうッスか?オレはあんまり覚えてないんですけど、もしかしたらおふくろならここに住んでいた人の事を覚えてるかも知れねーし」
彼女の事を見かねたのか、声をかけた以上放ってはおけないと思ったのか、そんな申し出をしてきた少年を、は驚きの表情で見つめた。
「それは…とってもありがたいけど、いいの?」
出会ってからこっち、すっかり少年のお世話になりっぱなしな彼女としては少し気が引ける気がしたが、手掛かりを失って立ち往生している今となっては少年の申し出はすぐにでも飛び付きたくなる程ありがたいものだった。
それでも一応形だけは遠慮がちに、もう一度彼の意思を尋ねてみると、少年は何故か少しだけ顔を赤くしながら、大きく頷いたのだ。
あらやだ、可愛いわね。なんてどこか場違いな感想を抱きながら、はふと思い出した。
「そう言えばお互いまだ名前も知らなかったわね。あたしは。あなたは?」
「あ、おれ、仗助って言います。東方仗助。よろしくッス、さん」
そうして彼女は、出会ったばかりの少年、東方仗助に案内されて、彼の家へと足を向けたのである。



捏造の『This world does not sleep』に続く為に重要なお話。
20120910