虎の見る夢

午睡

しゃおしゃおと蝉がけたたましく鳴いている。朝も早くからご苦労な事だ。儚い命を知ってか知らずか精一杯に鳴く蝉の声はどうにも耳について煩わしい。
とは言え夏に蝉が鳴くは自然の摂理。それに対して五月蠅いだのなんだのと文句を垂れるのは不毛すぎると分かっているから、頭の中にまで響いてくるようなしゃおしゃおと言う音を右から左へと聞き流して気にしていない風を装う事しか出来ぬ。
それにしても、夜が明けて幾分も経っていないと言うのにうだるようなこの暑さ。夏も本番という事か。そう言えば夜など随分と寝苦しくなってきた。
「おい、郭嘉はまだか。あとはあやつのみだぞ」
ついに堪えきれなくなったのか、僅かに苛立ちを含んだ声を上げたのは夏候惇。
「そう急くな、元譲。朝議の時間には少しばかり早いだろう」
早いと曹操は言うが、既にこの場には朝議に出るべき諸将が集まってしまっている。おおかた、あまりの暑さにいつもより早く目覚めたものの、他の事をする気にもなれずなんとはなしにこの場に集って来ただけの事だろうが。
「まぁしかし…確かにこの暑さは敵わんよなぁ…」
額から流れる汗を拭いながら夏侯淵がぼやいたその時、軽やかな足音と共に漸く最後の一人が姿を現した。
「おや、これはこれは…皆さんお早い事ですね。待たせしてしまったかな?」
暑さなんて微塵も感じていませんよ、とばかりの涼やかな声で部屋に入って来た最後の一人こと郭嘉は、上座の曹操に拱手すると席にもつかずに口を開く。
「まずは急ぎ、ご報告を…。明け方の事ですが、荊州にてとある勢力が旗揚げをし、江陵を支配下に置いたようです」
「江陵だと…」
郭嘉の言葉に諸将は驚きを露わにし、暑さにだらけきっていた室内の空気が徐々に張りつめて行く。
「それは確かな情報なのか?郭嘉」
「もちろん。私が重用している間者からの確かな情報だよ」
夏候惇の問いに柔らかく応えた郭嘉は頷きを返しながら己に用意された席に腰を降ろす。
帝と言う権力を手にし、散々に漢王朝を引っ掻き回し挙句の果てに裏切りによってその命を落とした董卓の死後、この中華は群雄割拠の乱世へと突入しつつあり、その混乱に乗じて勢力を立ち上げる者が後を絶たない。
曹操もこの乱世にこそ己が身を置くべきとしてその旗を掲げたわけだが、彼が拠点とする許昌のすぐ傍でまた別の勢力が立ったと言う。
「で、一体どこのどいつなんだ?俺たちの目と鼻の先で旗を上げた血気盛んな奴はよ?」
興味津々といった風で尋ねる夏侯淵に、郭嘉は悪戯な笑みを浮かべて口を開く。
「名を、、と」
「…女かぁ!?」
郭嘉の笑みの意味を知った夏侯淵が驚きの声を上げると、彼はますます楽しげに口元を緩め告げる。
「ただの女性ではありません。孫家の一の姫君ですよ」
「孫家…孫堅の子か」
許昌より南。今は長沙の太守の地位を得ている筈の男を思い出しながら夏候惇が低い声を出す。暴虐の徒と化した董卓軍に対し徹底抗戦の構えを見せていた気骨ある将と記憶している。
その孫堅の一の姫が、何故、この様な場所で兵を起こしたのか。
「ただ兵を上げただけではありません。どうもその姫の下にあの呂布がついたそうで」
「なんだと!?」
「あやつめ、董卓を斬り捨てた後姿をくらましていたと思っていたらまさかそのような…」
更なる事態に最早驚きを隠せずに声を上げ始めた諸将を余所に、今までずっと口を閉ざしていた曹操がふむ、と小さく唸った。
「よもやあの呂布を飼い慣らすとは…」
乱世への切欠となった董卓の死。それを齎したのは間違い無く呂布だ。
義理とは言え父と仰いだ男をいとも簡単に切って捨てる、そんな男が姫とは言え女の下につくとは信じ難い。
「呉が新たな戦力を擁したと言う事か?」
理解の範疇を軽く超えていったこの事態を自分なりに消化しようとした夏侯惇に、郭嘉は首を横に振る。
「それがそうでも無いらしい。孫家にとっても此度の事は想定外だったようで、呉の陣営も混乱の最中にあるようだ。そもそも、かの姫が国を出ていた事すら把握していなかったようだからね」
「世間知らずの姫の戯れか…それとも虎の子は虎と成り得るのか…どちらにせよ我が覇道を阻むものは容赦せん」
相手が誰であろうと己の覇道を阻むのであれば排除するまで。そう告げる曹操に、その場にいた誰もがさも当然とでも言うように頷く。
世を知らぬ箱入り姫の気紛れ。
江陵にその旗を掲げた彼女の事を、この時は殆どの者がそう思っていた。この乱世の波に飲まれ直ぐに消え行く、その程度の存在であると。
なにしろ彼女はあの呂布を手元に置いている。二度も父と呼ぶ男を切り捨てた暴将が、このまま大人しく女に使われているとは考え難い。
僅かな兵力と、諸刃の剣とも言える存在を抱え込んで勢力を示した姫の存在を、誰もが興味深く、だが直ぐに自滅するものと決め付けていた。



突如として興った新勢力に戸惑っているのは、ここ呉でも同じだった。
「何を考えておられるのだ姉上は!」
滅多に表に出てくる事の無かった一の姫が国を出るだけならず、中華のど真ん中で兵を挙げるとは夢にも思ってもいなかった。姉の考えが全くわからぬと孫権が頭を抱える。
「いつから姉様は屋敷にいなかったのかしら…」
呉国に於いても存在を秘されていた彼女は孫堅や他の兄弟達とは違う屋敷でひっそりと生活していた。そのせいで姉が何時国を出ていたのか把握できなかったのね、と尚香が小さく唸る。
「申し訳ございません…!数日前からお体の調子が優れぬと、人を遠ざけておられましたので…」
地に額を押し付けんばかりの勢いで低頭し、そう報告した彼女の侍女の言葉に孫策は肩を竦めるしかない。
「だがまさか周泰まで連れて行くとは…」
溜息交じりの言葉を零したのは孫権だ。姉がかの武将をいたく気に入っていたのは知っている。だが、まさか彼まで巻き込んでこの国を出奔するなど。
「さて、うかうかしていたら俺達も喰われるやも知れんな」
どこか楽しげな色を乗せてそう言った孫堅は知っていた。己が娘である彼女が、他の子供達の誰よりも、虎と呼ばれる血を受け継いでいる事を。



「…意外性はある、と言ったところが大体の反応ですかね。貴女のご家族は随分と混乱されているようですが」
「そうか。さぞ父上達もお怒りであろう」
些末な事であるとでも言うように軽く言い放ったこの女こそが孫家の一の姫、である。
広い玉座の片側に両腕を置きゆったりと横座りに座する女主を、賈クはそっと窺った。
彼女の両脇にはただひっそりと影のように静かに直立する周泰と、まるで鬼神の如き表情でふんぞり返るように仁王立ちしている呂布の姿がある。
まるで対照的な二人の豪傑を従えるこの女の底を、賈クはまだ読めずにいた。
彼女について分かっている事はただ一つ。
それは、彼女が生まれながらの王者であると言う事だ。
『虎』と称される剛毅で人の上に立つと言うその血を、彼女は一番色濃く受け継いでおり、そしてそれはきっと父である孫堅をすら超えるのだ。
「さて、行こうか」
まるでただ、遠乗りにでも出かけようかと言うような気軽さで彼女は告げた。
御意、とただ一言静かに応える周泰と、フン、と鼻を鳴らした呂布が立ち上がった彼女に続く。
「留守は任せるぞ賈ク。ぬしの手腕に期待している。くれぐれも、妾を失望させてくれるでないぞ」
擦れ違い様にそう声をかけられ、賈クの背中を冷たい汗が滑り落ちて行く。
留守は任せるなどと簡単に言ってくれるが、中華のほぼ中央にて旗揚げをした彼等の周りは敵だらけなのだ。それでもこの女主はこの地を手放す事を、この城を落とす事を許しはしないだろう。
なんとも優しい甘い声音で告げられた言葉には、回りを敵に囲まれた中で主不在の間城を守り通さなければならぬと言う重圧が込められていた。
「虎の子として生まれたからには支配する側に居たいものじゃ」
金色の瞳がにんまりと弧を描き、この中華の大地を睥睨する。

2016年03月24日