不如帰が哭く

雛が鳴いた朝

「主よ、起きていられますか」
静かに自分を呼ばわる声がして女は目を開く。
「起きている」
短く返事を返すと障子の向こうで大きな気配が動いた。
「では広間の方へ。そろそろ食事の支度が出来るようですよ」
そう告げた大きな影が障子の前から立ち去ろうとし、その直前でぴたりと動きを止める。
「次郎太刀。あまり主で遊んではいけませんよ。程々になさい」
言い残して今度は完全にその場を立ち去った大きな気配に、女がくつりと肩を揺らした。
「だそうだ、次郎。朝餉を食べ損ねるのは困る故、そろそろ終いにせよ」
「はぁい。それにしても遊んでるだなんて心外だよ。毎朝主の髪をきちんと結ってやってる健気な弟に対してさ」
ぶつぶつと零しながら、次郎太刀は熱心に梳いていた黒髪にくるくると髪紐を巻きつけて行く。
「アンタもアンタだ。せっかく綺麗な形(なり)してんだからもっとちゃんとすればいいのに」
「何度も言うているであろう。妾は数多の戦場を渡り歩いて来た身。美しく着飾るのも嫌いではないがその手技は持ち合わせておらぬ」
「だぁかぁらぁ〜、いい加減覚えろって言ってんの!」
「ぬしが居ればいい事じゃ」
さらりと言われてしまえばそれ以上、次郎太刀には言い返す言葉も見つからず、小さな溜息を零しながらもどこか嬉しそうに女の髪を纏めていく。どういう理由であれ、必要とされていると言うのは悪いものではない。
「ほら!出来たよ!今日もあんまり派手には結ってないけど…たまにはこうパーッと華やかにしてみたらどうだい?」
「いずれ、機会があればな」
「その機会ってのはいつ来るのさ」
上手く躱されてしまいむくれて唇を尖らせる次郎を笑って女はす、と立ち上がると身なりを整え障子を引いた。
「さて、一番最後に卓についた者には皿洗いでもしてもらおうかの」
「ちょっとー!?髪結いして上げたアタシをさらに扱き使うつもり!?」
次郎太刀が慌てて立ち上がり、どたばたと足音も高らかに女を追い掛ける。



「主は起きておられましたよ。次郎太刀に髪を結わせていましたからそろそろこちらに来るのではないでしょうか」
広間に戻ってきた太郎太刀に、燭台切光忠は忙しなく台所と広間を行ったり来たりしながら声をかける。
「すまないね。大太刀である君に使い走りみたいな事させてしまって」
「構いませんよ…これも近侍の務めですから」
そう応えた太郎太刀は、配膳を手伝って皿を抱えながら右往左往している短刀達をするりと避けた。
この本丸も随分と人が増えた。元は刀剣である己達の存在を『人』と呼んでしまっていいものかどうかは悩ましいところだが、今は人と変わらぬ姿をしているのだからそう言っておく。
最近の近侍は太郎太刀が務めているが、仲間がもう少し少なかった頃は光忠も近侍を務めていた事がある。
その頃の事を思うならば主は朝には弱い方ではなかったから、そろそろここに姿を見せるだろう。
面倒見のいい性格からか、元の主の影響か、炊事が得意な光忠はすっかり台所を任されてしまっているが不満は無い。
「さあ、主が来る前に準備を済ませてしまわないとね。みんな少しだけ急いでくれるかな」
そう声を上げると手伝いをしてくれている短刀達がはぁい、と元気な声を上げ、光忠は笑顔を浮かべる。
配膳が済んだ頃に丁度良く襖が開き、次郎太刀を伴った女主が姿を見せた。
「あるじさまっ!おはようございます!」
「お、おはようございます、主様…!」
上座に近い席は今日も短剣達が陣取っていて、見た目の通りに幼い性格をした彼等が我先にと主の近くの席を争っていのは微笑ましい。
「おはよう皆の者。今日も息災のようでなによりじゃの」
戦う為に集った者達であるとは言え、今日もこうして誰一人欠ける事無く集まった事に労いの言葉をかけると、短刀達は嬉しそうに笑顔を返して女の手を引く。
「あるじさま、はやくはやく!きょうはぼくもすいじのおてつだいをしたんですよ!」
「そうか。ご苦労であったな、今剣」
上座に腰を落ち着けた主を確認して光忠は短刀達を宥め、食事の号令をかけた。「いただきます!」と主に短刀達の元気な声が上がり、一時の穏やかな時間が始まる。
元々食事を大人数で取る事は少なかったと言う主だが、短刀達の『食事は大勢の方が楽しいし美味しい』との言を汲んでこのような食事風景が定例となったらしい。
騒がしすぎる食卓はどうかと思うが、こうして仲間全員で食事をすると言うのも悪くはないと、人の姿をとってこの場所で暮らすようになって光忠は思っていた。
慣れ合う事を嫌うあの大倶利伽羅ですらこうして食卓を囲んでいるのだから、主の支配力の高さが窺える。
ちらりとその主の様子を窺えば、彼女は箸を休めて刀剣達の姿を眺めていた。
こうして皆が集まっている時にその日の内番の担当を指示するのが常となっていたから、恐らく今もその振り分けでも考えているのだろうと、光忠は推測する。
そこで主が刀剣達へと視線を走らせている事に気付いた歌仙兼定が、あからさまに主から顔を背けたのに気付いて、光忠は思わず苦笑してしまった。
「歌仙、何故今妾から顔を背けた」
もちろん彼女の方もその仕草に気付いて、どこか面白気にそれを問い詰める。
「いや…別に、意味なんてないよ」
「何事も無いのにぬしは顔を背けるのか。ちいとばかり傷つくのう。よし、ぬしには今日の馬当番を申しつけようぞ」
その命に顔を歪め「雅じゃない…」とかなんとか呟いている歌仙だが、あの拒否のしようでは逆に煽っているようなものだろう。加虐心の強そうなこの女主に対しては余計に。
「それから長谷部も今日は厩を頼む」
「主命とあらば」
こちらはすんなりと命令を受け入れたへし切長谷部を見やって満足気に頷いた主は、次へと視線を走らせる。
「畑の方は小夜と宗三に。手合せは薬研と前田じゃ。一期、一緒に行ってやって指南してやるが良いぞ」
「かしこまりました」
一通り指示を終えた主は再び箸を動かし始め、以降発する言葉は少ない。
声を上げたり時折騒いだりしているのは、専ら陸奥守吉行や短刀が中心で、彼女の行儀は大変に良いものだったから、元々一国の主であったと言うのも本当なのだろう。
他人に命令を下す様も、動作の端々にも王者としての貫録が垣間見える。
未だ底の知れぬ主である、と結論付けた光忠は己も目の前の食事に専念することにした。この後もまだまだ、光忠には仕事が山積みなのだ。



食事の時間が終わってしまえばそれぞれが勝手に散って行く。
山姥切国広や大倶利伽羅はいつの間にか広間からいなくなっているし、内番に命じられた者達はそれぞれの任務をこなしに向かう。
用があれば主から声が掛かるので、内番や遠征が無いうちは基本的には平和で、暇なのがこの本丸の常だ。
「光忠。今日も旨かったぞ」
主からのお褒めの言葉を頂き、光忠は笑みを浮かべて頭を下げる事で意を示す。
食文化の異なる世界にいた主の為に、光忠が苦心しているのを知っている彼女はそれを労う事を忘れない。こういった些末な心配りを忘れぬ事が他者の上に立つ者の定めだと心得ているのだろう。
「それでは今日の日課を済ませてしまおうか。太郎よ」
声を掛けると、広間の片隅に静かに控えていた太郎太刀が心得たとばかりに腰を上げた。
強くて大きいものが好きだと公言するこの主は、最近は大太刀である彼を近侍にしている。
彼女の言う日課とは刀装や新たな刀剣の作成、刀剣男士の強化などであり、これらの作業に近侍の手が必要な事も多い。加えて、これらの作業をある一定数、毎日行えば時の政府から報酬も貰えるとあって、彼女は毎日朝食の後に必ずこれらの作業を一通り終えてしまう事にしていた。
後片付けやらなんやらでまだ騒がしさの残る広間を後にし、太郎太刀を伴って鍛冶場へとやってきた彼女は、鍛冶場に居ついている職人に軽く挨拶を済ませ、棚に置いてある帳簿を手にする。
「そう言えば京都の椿寺を攻略した時の報酬が出ていたな」
帳簿に記されているのは様々な資源の在庫数や配合の結果などで、それを見ながら彼女は本日の鍛刀について思いを巡らせているのだろう。
「そうですね。確か各八百五十ずつ頂いていたかと」
「ふむ…せっかくじゃ、ここはひとつ、大きく資源を投じてみるか」
今のところは鍛刀と刀装作成にしか使い道がない、と彼女は資源の配合を職人に伝え、太郎太刀はそれを帳簿に書き記して行く。時の政府からの報酬を受け取るには、こういった日々の記録が無ければならない。
見覚えのある書き殴ったような文字に、太郎太刀は前の近侍が己が弟であった事を思い出す。どうも次郎太刀は主との相性が少しばかり合わないらしく、彼が立ち会った初めての鍛刀にて一度で兄の太郎太刀を呼びおろす事に成功すると、押し付けるようにして近侍の座を明け渡したのだ。 「だってなんかちょっと堅苦しくってさぁ。アタシはもっと気軽な感じでやりたいんだよ」などと言っていた彼の気持ちもわからないではないが。
「ほう、五時間とな」
弟の事に思いを馳せていた太郎太刀は不意に上がった主の声に、帳簿から顔を上げた。
指示通りに資源を組み合わせ、鍛刀の準備に取り掛かっていた職人の見立てに寄れば、新たな刀が完成するのにかかる時間は五時間ほど。
「初めて、じゃの。五時間と言うのは」
今までの鍛刀でそれ程に時間がかかった例は無い、と呟く主に、太郎太刀も念の為にと記録を検める。
「そのようですね。…札を使用されますか?」
「うむ。そうしよう」
主が頷いたのを見て、いつでも使えるようにと帳簿に挟み込んであった『手伝い札』なるものを差し出すと、それを主がそのまま職人へと手渡した。
どういった理屈なのかは全く分からぬが、札を使う事によって作業にかかる時間をほんのひとときまでに縮めてしまう。この札は鍛刀だけではなく、刀剣達の傷を癒すのにも使用されるのだが、その仕組みについて理解している者は一人としていない。
霊的な力でも働いているのだろう、と太郎太刀は思っているが、主がこういった些末な事に拘らないのは有難い事だった。興味が無いのか順応性が高いのか。どちらにしても問われたところで彼が応えられる筈も無いのだが。
札を受け取った職人が作業場を忙しく動き回り始めると、あっと言う間に新たな武器が形を成していく。時折視界の端に狐のような不思議な生き物が映るが気にしない事にする。きっと式神か、何かそういったモノの一種であろう。
「新たな刀の参陣ですね」
そして太郎太刀の言葉通り、僅かに瞬きをする程の間に新たな武具が完成していた。
「これはまた…ぬしに負けず劣らずの大きさじゃな。これはなんと言う刀か」
「これは、薙刀と言います。刀とはまた少し違う刀剣です。斬る…と言うよりは薙ぎ払う事に特化した武具と言ったところでしょうか」
「薙刀…。これに似た武器が妾の世界にもあったぞ」
元の世界の事を思い出しているのだろうか、どこか懐かしそうに完成したばかりの武具を見つめていた主が、ふとその刀身に指先を滑らせた。
一瞬、怪我をするのでは、と太郎太刀は口を開きかけたが、この主は元々己でも武具を扱っていた身だ。それに、今触れているのも刀刃の部分ではなかったから、静かにその様を見守るに留まる。
刀身は兎も角、全体としての長さは大太刀にも負けず劣らずの薙刀ではあるが、これは薙刀の中でもまたひときわに大きい方だろう。
緩く切っ先に向けて反り返る刀身を指で辿っていた主の、纏う雰囲気が不意に変わり、太郎太刀は知らずと佇まいを正していた。
どうやら主はこの大きな得物を気に入ったようだった。常時、柔らかく笑んでいる彼女だったが、今はその瞳に明らかな歓びの色を浮かべている。
付喪神を呼び降ろす、その作法を邪魔しないようにと息を潜めると、その唇から凛とした声が放たれる。
「目覚めよ」
ただ一言だが、強い意志で発せられるその命こそが、彼女が付喪神として刀剣男士を呼び出す作法であり、実際に今も目の前で大きな薙刀は人の形を成していく。
既に何度か目にしてきたこの光景。先程馬当番を渋っていた歌仙兼定や、三条派の今剣、石切丸なども太郎太刀が近侍として神降ろしの瞬間に立ち会っているが、不思議なものだ。
そして彼等と同じように肉体を得た刀剣男士がその大きな身体を起こす。
「なんだ、今度の主はまた随分と線が細いのだな!」
大きな男に見下ろされた主は不躾とも取れる言葉にも機嫌を損ねる風も無く、変わらず笑んでいる。
「見た目に惑わされるのは得策ではないの。ぬし、名はなんと申す?」
「俺は岩融!武蔵坊弁慶の薙刀よ!」
どうにも声を抑えると言う事を知らぬのか、大きな声で高々と名乗りを上げた新たな仲間を見た主の表情は、艶やかで美しい。

名前変換なんてなかった
20150226