※サッチのお話です。嫌な予感のする方はご遠慮ください。覚悟の出来た方はスクロール。

























冷え切ったその身体に、己の体温を分けてあげられたら良かったのに。
流れ出る赤を、止めてあげられたら良かったのに。
私は何も出来ずに、ただ抱きしめる事しか出来なかった。



in the dark




嵐が来ていると航海士が言っていた。
昼間は全くそんな気配すら感じなかったと言うのに、この海の気まぐれさには本当に手を焼かされる。
それでも船に損害を出すわけには行かなかったから明るいうちにクルーが総出で嵐に備えて船を整備したり、甲板に積み上げられていた木箱を整理したりしていた。
そうして全ての支度が終わってしまえば能力者達の出番は無くなる。
嵐の中甲板に出て行って弱点である海に放り出されるわけにも行かなかったから、は大人しく自室へ引きこもっていた。
嵌め殺しの窓から見える空が曇り始め、小さな雨粒が落ちて来る頃にはいつの間にか彼女は眠りに落ちていた。
ここ数日は任務で島と船を行ったり来たりしていたから疲れも溜まっていたのかもしれない。
突然鳴り響いた雷の音で跳ね起きれば、既に部屋は暗くなっており、ランプも灯さずに寝てしまった彼女は思わず闇の中で身体を強張らせた。
雷光が窓から部屋の中を照らし、次いで鳴り響く空を割るような音に、慌ててベッドを降りる。
これはもう、眠るどころの話ではないと、部屋を後にした。
荒れ狂う海の上で誰も陽気な気分になれるはずもなく、もとより人気の少ない隊長達の部屋が並ぶその廊下は不気味なくらいに静まり返っている。
気分が滅入ったその瞬間に、鼻につくその臭いに気付いたのは、彼女の能力からくるものかそれとも長年の経験からくるものなのか。
視界の端で闇が蠢いたような気がして視線を巡らせれば、一室のドアが微かに開いていて中の明かりが漏れている。
薄暗い廊下の壁を手で探りながらそちらに足を向ければ噎せ返るようなその臭いが濃くなった。
どくり、と心臓が跳ね、一瞬にして全身に激しく血が巡るような感覚に陥る。
全身の血が激しく脈打っているのに手足の先が冷えていった。廊下を覆う闇が心の中にまで入り込んでくるようで、思わず身体を震わせた。
「な、に…この臭い…」
それが何の臭いであるのか薄々感づいてはいたが、それを認める事が出来ず、のろのろと明かりに向けて歩き出す。
「サ、ッチ?」
最早長年暮らしてきたこの船で、その部屋の主が誰であるのか間違えるはずも無く、薄く開かれたままの扉に募る不審感を押しやるように声を出す。
だが中からの返事は無い。
鼻につくその臭いは最早疑いようの無いそれとなって、嗅覚を麻痺させようとしていた。
眩暈を覚えて軽く頭を振るが、背中を走り抜ける悪寒は止まらない。
「サッチ?」
もう一度声をかけ、意を決して扉を開いたところで、はその瞳を大きく見開く。
「ば、かな…!」
思わず零れ出た言葉はすっかり擦れていて、まるで自分のものとは思えなかった。
だが。
きつい臭いの元の中、ベッドの縁に身体を凭れさせるようにうずくまる男の姿に、ともすれば飛びそうになる意識を必死に繋ぎとめた。
「サッチ…!」
呼ぶ声は信じられないくらいに震えていた。
「……か、」
確かに彼は彼女の名を呼んだのだが、それは殆ど聞き取る事が出来なかった。
慌てて傍に寄ればサッチが弱々しい笑みを向けてくる。彼のそんな笑みは今まで見た事が無く、は恐ろしくなってもう一度身体を震わせた。
「サッチ!!一体何が!?」
最早疑いようも無い。先程から嗅覚を麻痺させるくらいに強い臭いを放つ程の血だまりの中、赤く染め上げた胸を押さえる手に己の手を重ね、服が汚れるのも厭わず彼の上半身を抱きとめる。
、汚れちまう」
「バカ!そんな事どうだっていい!」
こんな時でも彼女の洋服の心配などするサッチに声を上げ、ベッドからシーツを引き剥がして彼の傷の上に押し当てる。
だがそんな止血がなんの効果もなさそうなのは、薄々と気付いていた。
握り締めた彼の手は冷えた彼女の指先よりも更に冷たく、その呼吸は既に浅く細い。
声を出すのですら苦しそうにしている彼を自分は救えないと、は頭のどこかで悟ってしまった。
「誰か!!誰か来て!!マルコ!!」
声を張り上げ人を、愛しい人を呼ぶ。
誰でもいい、すぐにここに来て彼を助けて欲しいと誰かに気付かせる為に雷まで放った。
その間にもサッチの瞳がゆるゆると閉じられようとしているのに気付いてその身体を抱きしめる。
「なァ、お前…ずっと、マルコの傍にいろ、よ。お前らホントにお似合いだからよ」
寄せた耳元でサッチが囁くように言うその言葉に首を横に振る。
「え、んぎでもない事を…!」
最後の言葉など聞きたくも無いと震える彼女の瞳をじっと捕らえ、サッチが小さな笑みを浮かべた。
「あと、アイツに…伝えてくれ…」
愛する女への最後の言葉を告げたサッチの瞼がゆっくりと閉じられる。
「サッチ!駄目だ!目を閉じるな!!起きろ!!」
重ねた手を強く握り締め、その身を揺する。
「ムチャ言うな、よ。おれァもう、眠くて仕方ねェ…よ…」
最後まで笑みを浮かべていたサッチの身体が一気に重くなった。全ての力を失って腕の中に崩れる彼の身体を、はただ抱き締める事しか出来ない。
二度とその瞳が開かれないと気付いた彼女の口から、押さえる事の出来ない叫び声が上がった。



「一体何が…!」
いち早く駆けつけたビスタが目にしたのは既に事切れたサッチと、彼の身体に縋って泣きじゃくるの姿だった。
「これ…どういう事!?」
次いでやってきたハルタが部屋を覗き込むなり言葉を失い、それ以上は足を踏み入れられずにいる。
そんなハルタに残りの隊長達を集める事とオヤジへの報告を任せて、ビスタはその肩に手をかけた。
何があったのか、などと今は聞いても無駄だと悟ったビスタはサッチの手を握り締めたままの震える手をそっと外してやる。
サッチの身体を抱え上げれば、彼女はその場にへたりこんでしまう。
亡骸をベッドに横たわらせ、シーツを被せているとマルコが部屋に入ってきた。気付けばラクヨウやフォッサも入り口を固めるように立っている。
…」
その傍らに膝をついて彼女の顔を覗き込むと、涙を零し続ける彼女が縋りついてきた。
その身を優しく抱いてやりながら、視線をを周囲に向ければ。
「ここはおれが受け持つ。お前は暫くを見てやれ」
「直ぐに緊急会議を開く。決まった事は後で知らせに行くよ」
ビスタが頷き、イゾウがその後に続く。
「すまねェな。頼むよい」
本来ならば彼女もその席にいるべき身なのだが、サッチの最期を目にしたその衝撃は大きい。
今はまだ何もする事ができない彼女をマルコに任せ、隊長達はそれぞれ動き出す。
ビスタを部屋に残して隊長達が去って行くとマルコは彼女をゆっくりと抱き上げた。
会議は他の隊長達に任せて自室へと向かう。
柔らかいランプの光を湛えた部屋で、はもう一度マルコに縋って泣きじゃくった。
厳しい視線を壁にやりながらもマルコは優しくその髪を梳いてやり、彼女が落ち着くのを待った。
やがて嗚咽が啜り泣きに変わり、時折肩が震えるだけになった頃、ようやくマルコは優しく声をかける。
「相手を見たか?」
短い問いだったが、それがサッチをあんな目に合わせた相手の事を尋ねているのだと分かる。
だがその相手の事を知らない彼女は、マルコの肩に顔を押し当てたまま小さく左右に顔を振った。
「そうか…。サッチは何か言ってたかい?」
再び首を横に振る。彼は、重要な事は何一つ言わずに逝ってしまった。最期まで、いつものように笑みを湛えたまま。
状況からしてもサッチを手にかけたのがこの船の中の誰かである可能性が濃く、それでも家族の名を明かそうとしなかった彼の事を思う。
「バカだよい。お前は…」
そう呟き腕に抱いた彼女の肩に顔を埋めたマルコの肩が小さく揺れた気がして、はもう一度静かに涙を零した。



嵐が過ぎた夜明けの船は、未だ嵐の最中にあるようなざわめきを湛えていた。
サッチの訃報は直ぐにモビーディック号と付属する三隻の船に乗る全員の知るところとなり、その部屋に残って色々と調べていたビスタによって彼の部屋から悪魔の実が消えている事が分かった。
そして数いるクルーの中から一人の男の姿が消えた事も。
「嘘だろう…まさか、アイツが…」
凍りついた表情で苦々しげに言ったのはエースだった。
「ずっと、狙ってたんだ。あの実を。ただ、それだけを」
会議の席に報告に来たビスタがそう告げて瞳を伏せる。
野心などないような顔をして。無害な、ただの陽気な海の男。その仮面の下にずっと獲物を狙う獣の顔を隠し続けていた。
長年船に乗っていたマルコやジョズ、ビスタ達の目すら欺いて。
「…許さない。ティーチ…!」
目を赤くさせたの瞳が鋭くぎらつく。
仲間殺しはこの船では最大のタブーだ。
それを己の野望の為にあっさりと破った男を許せる筈も無かった。



彼の亡骸を包んだジョリー・ロジャーがゆっくりと水面に下ろされていく。
海に、帰るのだと誰かが言っていた。
彼は幸せだっただろうか。この広い海を愛した男は、望む人生を歩めたのだろうか。
ただ一人、静かな眠りに包まれる彼は寂しくはないのだろうか。
様々な感情が押し寄せて来て、は久し振りに己の感情が制御できなくなっているのを知る。
けれど今はそれを抑えたいとも思わなかった。
隣に立つマルコが優しく肩を抱いてやれば、その胸に縋る。きつく握り締められる彼女の手を、マルコは解いてやる気もなかった。
聞こえてきた歌声に目を向ければ、サッチが愛してやまなかった0番隊の女の姿があった。
冴え渡る声で歌い上げるのは鎮魂歌だ。その切ない音色に涙を誘われる者も多い。
彼女の心を思うとも自分の事のように胸が締め付けられた。
自分が出来る事と言えば、彼女と共にサッチを見送る為に旋律を奏でるくらいしかない。ゆるゆると口を開いて彼女の旋律に音を合わせた。
切なくも静かに響き渡る鎮魂歌は、サッチの姿が波間に飲まれ海に沈んでいった後も暫く聞こえていた。



やがて鎮魂歌が啜り泣きに変わる頃、エースはマルコ達の制止の声を振り切って船を飛び出していったのである。



20101013