貴方は美しかった。
貴方は気高かった。
貴方は強かった。
そんな貴方に心惹かれてやまなかった。
きっと、貴方を愛しているのだろう。



慰留




「張遼殿、ここは私が引き受けます。貴方は殿の救出に向かわれて下さい!」
彼女はそう言うと腰に佩いた剣を抜き馬を返し、波の如く押し寄せる大軍の前にその身を躍らせる。
殿!!」
「殿を頼みます。張遼殿」
彼女にそう言われてしまえば、張遼は抗う事など出来なかった。
殿…どうかご無事で……」
張遼の言葉に頷きで応え、彼女は後を追ってくる強敵に向かい合う。
張遼もも優れた武人だった。優れた武人であるが故に二人にはもう分かっていた。
この戦の行く末が……。
それでも一人の君主に忠誠を誓った武人である以上。馬が走れる限りは、命続く限りは、止まれないのだ。
「かのように美しく強い御仁がここで散って行くのか…」
張遼の呟きは馬の駆ける蹄の音に掻き消されて誰の耳にも届くことは無かった。
本当なら、今すぐにでも馬を返して彼女を守りたかった。
だが、張遼は呂布という主に忠誠を誓った身である。それに、頼むと言われてしまった。
後ろ髪を引かれる思いを振り切るように、張遼は更に馬を走らせた。
一方のは、未だかつてない強敵と対峙していた。
「お前がかの有名な呂軍の女武将か」
一つしかない瞳からは激しい威嚇を含んだ視線が向けられる。
「貴方のお噂もかねがね伺っております。隻眼将軍夏侯惇殿…。相手にとって不足はありません」
気圧されるものかと腹に力を込め、切先を夏侯惇に向ける。
「いざ!!」
「女であろうと容赦はせぬぞ」
「望むところ!」
彼女は手綱を強く引き絞った。



何度刃を交えただろうか。
愛用の剣を持つ手は痺れ、上手く言う事を聞いてくれそうにも無い。
彼女は敵との間合いを取りながら唇を噛んだ。いくら呂軍を代表する武将の一人とはいえ、は女。相対する夏侯惇との力の差は如何ともしがたい。
次が最後と覚悟を決めた彼女の気を察したのか、おもむろに夏侯惇は口を開いた。
「女ながらになかなかの勇猛ぶりよ。だがしかし、お前がこれ以上刃を振るう理由は無くなったのではないか?」
夏侯惇が切先でその背後を指し示す。
はっとして振り返る女の目に映ったのは、遠く彼方に見える自軍の城。そして、そこにはためく「曹」の字の旗だった。
「と…殿……。張遼殿…」
金属特有の鈍い音がして、剣は地に落ちた。



曹軍の城に一室を宛がわれ、張遼は曹魏の一員となった。
主である呂布は戦の最中に命を落とし、軍師の陳宮、同じ武将であった高順も呂布に殉じた。
叶うものならば、自分も呂布に殉じたかったが敗軍の将に選択権は無い。
曹操が己の武を望むなら、今度は曹魏でその力を揮うのみだ。
ただ張遼は、の行方のみが気懸かりだった。
呂軍の旗が落とされた時に投降したらしいが、それ以来姿を見かけていなかった。
陳宮や高順が斬首に処せられた時も、彼女の処分は聞かされていない。
人知れず処刑されたのか、それとも曹操の後宮にでも入れられたか。
彼女の美しさを考えればそれも有り得ない事ではない。だが、それだけはあって欲しくは無いと張遼は思って、そして苦笑した。
そこまで彼女の事を想う自分に今更ながら気付く。
そして最後に彼女が剣を交えた相手が夏侯惇だったのを思い出した張遼は、魏軍に加わった挨拶がてらと、彼の部屋に足を運ぶことにした。
「夏侯惇殿、ご挨拶に参りました。張文遠と申します」
「丁度良い。入れ。こちらもお前に用がある」
扉を叩くと思いがけず直ぐに夏侯惇が応じ、扉をくぐると、聞きなれた声が張遼の耳に届く。
「張遼殿!!」
そこには張遼がずっとその身を案じていた彼女の姿があった。
「お前からも何とか言ってやってくれないか?」
「は…?」
夏侯惇の言葉に張遼は事態が飲み込めず、思わずその場に立ち尽くしてしまう。
「孟徳が自分の後宮に入れようとしたのだがな…後宮に入れられるくらいなら死を賜りたいと言って聞かぬ。ならばその武を曹魏の為に使えと言ったのだが、我が主は呂布だけだとな…さすが、呂軍の将を務めただけあって豪胆な女よ…」
苦笑を浮かべながら、夏侯惇は事情を説明した。
「俺がいては話し辛い事もあろう。少し場を外すからその間に説得してやってくれ。俺は、その美しさも強さも、ここで失くすには惜しいと思う」
夏侯惇はそう言うと、扉を抜けてどこかへと去って行ってしまった。
残されたのは、張遼との二人きり。
「ご無事でしたか、殿」
張遼が声をかけると、俯いていた女が顔を上げて応える。
「張遼殿も…ご無事でいらしたのですね…」
「はい…お恥ずかしながら、殿も陳宮殿や高順殿も既にこの世にないと言うのに、おめおめと私一人が生き恥をさらしております」
張遼はそう言って苦笑いを浮かべた。
「いいえ。貴方だけでもご無事で良かった…。心配しておりました。貴方を…一番危険な殿の許へ行かせてしまった…」
罷り間違えば、呂布と共に命を落としていたかもしれないのだ。
「貴女に頼まれればこの文遠、どこへなりとも赴きましょうぞ」
「いけません!そのように、むやみに命を危険に晒すなど…!」
声を荒げた彼女に、張遼は微笑みかけた。
「それは貴女もですぞ、殿。死を賜りたいなどと…軽々しく仰らないで頂きたい」
恥じ入る様に俯いた彼女の手をそっと掬い取る。
殿、どうか恥を忍んで共に曹魏に仕えて頂きたい。貴女の武は曹魏にあっても引けをとらないでしょう」
まだ決心がつかないのか口を閉ざしている彼女に、張遼は掴んだその手を軽く引き寄せた。
為すがままには張遼の胸に引き込まれていく。
武将とはいえど、己よりも一回り以上も細いその身体を腕に閉じ込めて、張遼は己の中にある彼女への想いを改めて感じる。
「正直なところ私は貴女を失いたくはないのです。私はこれからは貴女をお守り致します。ですからどうか、死など望まず私の側にいて頂けないだろうか?」
己の腕の中で顔を朱に染めた彼女を見て、張遼は笑みをこぼす。
「返事が欲しいわけではありません。私はただ、貴女を守りたい。だから殿、そのように赤くならずともよろしいのですよ」
は軽く首を左右に振ると、張遼の腕の中で彼を見上げた。
「いえ……いいえ、張遼殿。私が貴方の事を案じていたのは本心からです。私が死を望んだのも、殿も…そして張遼殿もいないこの世に未練などなかったから。ですが、貴方がこうしていてくださるのなら話は別。恥を忍んで、共に生きましょう。呂布様を超えたこの曹魏の天下を見届けましょう」



二人が主を失い、仕える先を替える痛みを共に乗り越えていくと誓っていた頃…。
夏侯惇は部屋に戻るに戻れなくなって小さな溜息をついていた。



20150130加筆修正