お前を、欺き続けている。
近くに感じる温もりに、触れたくて、でもそれは出来なくて。
想いを抱えて先に進む事も、後に引くことも出来ないのに。
それでも傍にありたいと望む私を、浅ましいとお前は言うだろうか。


偽りの人・壱




一人の美しい将がいた。
呉国では古参になる将だが、年はまだ二十五をいくらか越えたといったところだ。
身体の線は細めだが、その変わりに動きは誰よりも敏捷で、誰も彼の者を容易く捕らえる事は出来なかった。
彼の者は他の将達とは違って、思い鎧は身に着けていなかった。
いつも、ゆったりとした衣に身を包んで、悠然としている。
彼の者の得意とするのは暗器。
暗器と言うのは所謂暗殺の為の技で、様々な暗器をその服の中に隠し持って戦うものである。
裾の長い上衣に隠された脚には幾本もの飛剣や暗剣が括り付けられ、ゆったりとした袖にはこれまた幾本かの暗剣や火薬、懐にも同じように様々な武器が忍ばせてあった。
そんな者が何故に間者では無く、一人の将として活躍しているのか。
それは、彼の者が優秀な将であったからである。
偶々暗器に優れていたと言うだけで、彼の者には類まれなき将の力が備わっていた。
加えて、若い頃から孫家に使えてきているのである。
今は亡き孫堅の時代を知っている貴重な将軍として、今の当主孫策が彼の者を引き立てたのだ。
これから数多の将達と肩を並べ、天下に飛躍しようと言う孫策には、彼の者の力は正に必要不可欠であった。
そして、彼の者には大きな秘密が一つだけあった。
心にもそして装いにも余裕を見せる彼の者は、誰ぞ知らん、実は女であった。
この事を知っているのは呉の将達の中でも古参の者か、孫家の人間だけであった。
孫策に将に引き立てられる時に、彼女は自分から告げた。
将になる以上は自分は男として生きたいと。
この時代、女性が将になるのは限りなく可能性の低い話だったし、孫呉にはそんな者はいないとは言え、やはり他国の者に女だからと甘く見られるのは嫌だった。
そういった理由から、彼女は以来男としてその人生を進め、偽りの姿に身を窶しているうちに、暗器などを得意として行ったのである。
女性である事を隠してまでも孫呉にその身を置き、亡き孫堅の時代から使えるその者は、名をといった。



「いや…どうにも辛いね、これは」
小さく呟いたその将を、孫尚香は複雑な表情で見つめた。
宮中を大きく取り囲む城壁の上、と孫家の姫君尚香が並んでいた。
一見すると一国の姫君と麗しの将との会合という絵になる場面だが、あいにく尚香は孫家の人間で、その正体を知っていた。
「貴方本当に大丈夫?」
尚香がそう声をかけると、は不思議そうな顔で尚香を見やる。
その仕種に、尚香は大げさに頭を抱えて見せた。
「口に、出てたわよ、今の」
「!!本当ですか…」
慌てて己の口に手をやる様子に、尚香は肩を竦める。
尚香とは、同じ女性でありながら武器を取る者として、臣下の域を超えて懇意にしていた。
今も、の悩みを聞いてやっていたのだが話の最中にふと、己の足元を見つめ無意識に洩らした言葉、それからも彼女がいかに重症なのかが分かる。
「ねぇ、いっその事思い切って告げてしまえば?」
「無理ですよ、そんなの。私は一応男で通ってるんですよ?」
会話の内容から察するに、それは間違いなく色恋事の話であって。
普段は屈強な猛者達の中で凛としている彼女も、やはり女性なのだと、尚香は改めて感じる。
「だから、その時に自分が女だって事も言っちゃいなさいよ」
「それも、無理です」
まだ言ったわけでもないのにやけに後ろ向きな発言をして、は顔を伏せる。
そんな彼女の様子をもどかしく思いながら、尚香は尚も言う。
「周泰なら、大丈夫だと思うんだけどな」
何の気も無く発せられた思い人の名、それだけなのに過剰に反応を示して。
彼を想い微かに顔を赤らめる、その後に諦めの表情。
の百面相を見ながら、尚香はこれは本当に重症だと再び肩を竦めた。
一軍の将となるからには女を捨て、只の武人でありたい。
将に引き立てられる時にそう決意をしたの中には、それでも確かに女の部分は残っていて。
傍で見ている方が切なくなる程、周泰への想いは切実で。でも、その感情を押さえ込み切り捨てたのは彼女自身。
如何ともし難い矛盾が彼女の中で渦巻いているのが、尚香には見て取れた。
「私は…そんな気で周泰と親しくなったのでは無いのにな」
周泰は孫策が孫権の護衛にと推した人物だったが、古参の将でもありかつ孫家に近しい人間として、は最初何くれと無く彼の面倒を見てやっていた。
水賊あがりの彼が、不自由しないように。惨めな思いや、いらぬ言葉を聞かないように。
そうこうしているうちに、二人の間には戦友とも親友とも言える固い絆が出来上がっていたのだが、がそれに恋心を付け足してしまうまでそう長い時間はかからなかった。
忠実且つ、誠実。不器用ではあるものの、その心はまっすぐな周泰と。
奔放ではあるけれど、誰よりも周りに目を向け、いつも余裕のある思慮深さを見せると。
お似合いだと、尚香は思う。
「何がそんなにいけないのよ?」
「一つに…私は幼平を欺いている。それが辛い。二つに、私はやはりそんな気で彼と親しくなったのでは無いと言う事。一人の武人である以上、こんな想いは抱いてはいけないのに…。三つに、私は今の彼との関係を壊したくない」
一度言葉を切ると、彼女は泣き笑いのような表情を浮かべて言った。
「なんだかんだ言って、私は怖いのですよ。今の関係が壊れてしまう事が。幼平に嫌われてしまうかも知れない事が。幼平を欺いている。武人にはあるまじき想いを抱いている。あまつさえ、その想いを捨て切れずにでも今の関係も無くしたくないが故に醜く足掻いている己も…」
「恋をする事って、そんなにいけない事なの!?」
我慢できないとでも言うように少し声を荒げた尚香の口を、は慌てて塞いだ。
「尚香様!お声が!」
それでも尚香は己の口を塞ごうとするその手を振り払って言い募る。
「私は、貴方の事ずっと見てきた。小さい頃から父さまや策兄さまに仕えてる貴方を知ってる。貴方は将として立派だったし、それは今でも変わらない。女を捨てたって貴方は言うけど、好きになった人にくらい本当の事を話して、秘密を共有してもらってもいいと思う。貴方にはその権利があると思う。秘密を打ち明けて、それが受け入れてもらえなかったら、周泰もそこまでの男だって事よ!」
「…酷い…言われようですね…」
まくし立てる尚香の声に、耳慣れた低い声が重なって、は己の耳と目を疑った。
二人は城壁に登る階段のすぐ傍に佇んでいたのだが、そこから上がってくる人物は紛いも無く周泰幼平、その人。
突然の事には言葉を失い、酸素を取り入れようとする鯉の如く口を開閉させるしかない。
「よ…う平、いつから…」
「最初からよ」
搾り出すようなその問いに答えたのは尚香だった。
「さ…最初からって…」
尚香が顔をしかめた呟きの前に、周泰への慕情を吐露していた事に気付いて、は瞬時にして顔を真っ赤に染め上げた。
「はっ…!?なっ、最初って…」
熱を持った顔を隠すように、は片手で顔の下半分を覆うが、既に音にしてしまった言葉に収集はつかない。
「後は、貴方達でどうにかしなさいよね!」
無情にも尚香はそれだけ言ってさっさと城壁を降りて行ってしまった。
「ちょ!尚香様!そんな…!」
彼女に追い縋ろうと城壁を降りる階段に脚をかけただったが、振り返った尚香に指を突きつけられる。
「いい?ちゃんと話もしないで帰って来たら私の弓が飛ぶわよ?」
弓腰姫と謳われる尚香の瞳が本気であるのを悟って、は逃げ場を失った。
去っていく尚香の後姿を見送りながら目の前が真っ暗になった気がして、思わず階段に座り込む。
「泣きたい…」
一端の武人として心に秘めておくはずだった、少なくとも今はこんな形で知られたくは無かったこの想い。
…」
周泰の静かな声が丸められた彼女の背にかけられるが、彼女は頭を抱え込んだまま身動きすらする気配は無かった。
全て、知られてしまった。
いつもは余裕を見せて周りに目を配っている彼女も、さすがにこの時だけはそんな余裕も無く。
静かな気配を纏っているのに絶対的な存在感を以ってして己の背後に佇む周泰に、今は合わせる顔も、かける声も持ち合わせていない。
「こちらを向け」
「…すまない、幼平」
…」
何に謝っているのか分からないと、周泰が彼女の方に歩を進めようとする。だが。
「来ないでくれ、幼平」
「何故だ」
「聞いていただろう。…私は、お前を欺いていた」
小さく震える女は己の身体に腕を巻きつけている。服の余裕を無くすその動作で、はっきりと分かるその線の細さ。
もとより線の細い奴だとは思っていたが、陸孫などがいたためそんなには気にしていなかったが、やはり彼女は本当に女だったのだと、再確認する。
「俺は…欺かれたとは思っていない」
「お前の…傍にいるのが心地良くて、それでも己の想いを止める事は出来なかった。浅ましい私を…知られたくない。全て、忘れてはくれないか」
「何故だ」
更に問い縋る周泰に、は声を震わせる。
「今更…一人の将として、私に気を許してくれたお前に、今更女としての自分を見せるなど…それこそ卑怯な事だと思う。私は…お前との絆に付け込んでまで私を愛して欲しいなどとは思っていない」
「俺は…」
周泰が隣に並んだのが気配で分かる。
「愛している」
「は?」
突拍子も無い言葉に驚いて顔を上げた彼女の、空いた腕をすかさず捕らえる。
「お前は、そうやって一人で決着を付けて…無かった事にして…俺に何も言わせないのか」
周泰の言わんとしている事が分からなくて、は何度か目を瞬かせた。
「確かに俺は、お前をずっと男だと思っていた。…だから、俺のこの想いは、決して伝えてはならないとも思っていた。出会った時から、お前は立派な将だった。古くから孫呉に仕えていて、皆からの信頼も厚かった。お前は俺を気遣ってくれた。色々と良くしてくれた。だから俺は、お前を愛しているから…お前自身を愛していたから男でも女でも関係なかったが、凛としたお前に俺の気持ちを告げるのは浅ましい気がした」
いつに無く饒舌な周泰を、は只ただ驚きの表情で見つめ、それでも彼の言わんとしている事が分かり初めて、否、最初から答えは告げられているのだが、その言葉に真実味を感じて行く。
「俺を欺いていたと言うのなら、俺もお前を欺いていた。お前が浅ましいと言うのなら、俺もまた浅ましい」
「同じ…だったのだな。私とお前は」
呟くの肩をそっと抱くと、周泰は小さく。
「…そのようだな」
想いが通じた喜びの余韻に、は暫く浸っていたが不意に周泰の顔が近くなっているのを感じ、慌てて己と彼の顔の間に手を滑り込ませた。
遮られた行為に不満の表情を浮かべた周泰を、宥めるように言う。
「幼平…ここでは駄目だ。誰が来るか分からない」
周泰に想いを告げ己の抱える秘密を打ち明けたが、彼女は世間的にはまだ男でなくてはならないのだ。このような場面を他の者に見られる訳には行かなかった。
「なれば…続きは室で」
そう耳元で囁く周泰に、は瞬時にして耳まで朱に染めた。
「ば…馬鹿者!」
滅多に見られない彼女の慌てふためく姿に気を良くしたのか、周泰は喉を鳴らして笑うと、その真っ直ぐな視線でを見やる。
「…だが…お前は来る」
問いかけるでも無くそう言い切ってしまえば、は観念したように苦笑を浮かべる。
「先に行っていてくれ。後から尋ねる」
その言葉に納得した周泰はゆっくりと立ち上がり、だが微かに未練を残してそこを後にした。
周泰が去って行くのを見送りながら、は嬉しさのあまり浮かんでくる笑みを抑える事ができず、また己の手で顔を覆い隠した。
「まいったね…物凄く、嬉しいなんて」
女である事を捨てたはずなのに、こんな形で想いが報われるとは思っていなかった。
後で尚香に礼を言わねばなるまい。
その時には事の一部始終を話さなければならなくなるだろうが、それすらも今のには幸せの再確認にしかならず。
「随分と現金なものだな、私も」
自分自身に苦笑して、周泰を尋ねる為に城壁を後にした。



20100620加筆修正