「さあ、殿、周泰殿、説明してもらいましょうか」
自分達よりも若年の、だが恐ろしく頭の切れる天才軍師(火計大好き)に形容しがたいほどの表情で凄まれ。
孫呉きっての古参の将と、孫権の忠実な護衛を勤める将が。
呉軍の名だたる将二人が。
困りきった表情で身を硬くするその様は、なんとも言えず哀れなものであったと。
その場に居合わせた呂蒙を初めとするやはり呉軍を代表する将達は、二人の姿に思わず心の中で合唱したのだった。



偽りの人・参




そもそもの始まりは、奔放且つ強引な呉国君主の一言にあった。
最近は戦も無く至って平和なので、一つ息抜きに噂の秘湯へ行ってみようではないかと。
その誘いがかかったのは呉国でも名だたる武将達だった。
例え一泊の旅とは言え、呉国の名だたる武将が全員して勤めを離れるのはどうかという意見も出たが、そこは孫家の事、どうにかなるさ!の一言で押し切られてしまい、結局の所錚々たる顔ぶれで噂の秘湯とやらに息抜きをしに行く事になってしまったのである。



秘湯の近くの小さな村で、一番大きな館を一晩の宿として借り入れる約束を取り付けた後、一同は早速秘湯とやらに行ってみようと言う事になった。
周泰としてはその正体を偽っているの事が気がかりだったが、尚香に「にもちゃんと秘湯を味あわせてあげるから!まかせて!」と言われてしまえば何も言えなかった。
さて、その秘湯は実に見事なもので、ちょっとした池くらいの広さがあり、真ん中には大きな岩がそびえていた。
「丁度いいわね。岩の向こう側は私が入るから、こっちに来ちゃだめよ?、途中まで護衛お願いね」
現場に着くなり、尚香はそう言ってさっさとを連れて温泉の向こう側へ回って行ってしまった。
そのまま彼女も温泉に入れてしまうつもりなのだろうが、果たしてそんな簡単に行くのだろうかと周泰は不安でならなかったが、他の者達は特には気にしていない様子でさっさと服を脱ぐと秘湯に次々に飛び込んで行った。
「幼平、そう気にしても仕方あるまい。私達も秘湯を楽しもうではないか」
孫権に声をかけられ、周泰は頷いて従うのみだった。
誰が持って来たのかいつの間にか湯に盆が浮かび、甘寧や呂蒙等は晩酌と洒落込んでいる。
大岩一つを挟んだ裏側では、尚香の楽しそうな声が響いている。
己の主の血筋にある女性にそのような事を思うのは死罪にも当たる不敬罪だとは思っていても、年頃の娘がはしゃぐ声に、ついあらぬ姿を思い浮かべてしまいそうになって己の思念と必死に格闘する者も数名。
だが、何人かの者はそこではた、と違和感を得る。
「尚香殿は一体誰を相手にあんなにはしゃいでおられるのだ?」
呂蒙がふと口にした疑問に、孫家と周泰の顔が微か青ざめた。
今回の旅では、主だった武将と孫家しか来ていないのだ。従って女性は尚香しかいない。
いつもなら姫君の相手をしているはずの大喬と小喬はこの場にはいない。
それなのに、尚香のあのはしゃぎようは…。
「そう言われてみればおかしいですね。尚香様は今お一人のはず…」
恐ろしく頭の切れる軍師が呟く言葉が、孫策、孫権、周泰の三人には死刑宣告のように聞こえる。
「あ…あれだ、野の動物でも出てきて喜んでいるのではないか?」
なんとか言い繕おうとする孫権に、呂蒙は納得しかけたが、そこへ決定的とも言える尚香の声が響く。
「やだー!もう、ってば!」
だと!?」
「あいつ、姫様の護衛とか言いながら…何やってやがる!」
殿…なんて不埒な…!」
呂蒙や甘寧、果ては陸孫までが声を上げる。
「尚香様!お声が!」
そんな悲鳴のような声が三人には聞こえたが、最早時既に遅し。
「すまん、。俺達にしてやれる事はもう何もねえ」
諦めたように肩を落とす孫策の横で、孫権も項垂れて大きな溜息をついた。
「姫様、失礼仕る!」
!てめぇ何考えてやがる!」
殿、私は貴方を見損ないましたよ!」
口々に勝手な事を言い募りながら男女の間を阻む大岩を回り込んで行く仲間達に、周泰は慌てて追い縋ろうとして、ふと気付いて方向を変える。
男達が近づいて来るのを知っては慌てて尚香の口を塞いだが、既に後の祭りで、既に大岩の影から甘寧や陸孫を初めとする仲間達の姿が見えていた。
!」
死罪にしても尚その罪は重いと言わんばかりにに言いかかろうとしていた男達は、だがそこで思わず歩みを止めた。
尚香の傍に佇む人物、それは彼等の良く知る麗しの猛将では無く、全く見知らぬ女性だった。
「貴様等!姫君の入浴を堂々と除きに来るとは何事だ!」
とっさにはいつもの男の調子で声を荒げ、そしてつい、臣下の癖で尚香の身体を己の身で庇った。一糸纏わぬ己の肢体が一同の視線の元に晒されている事すら忘れて。
「お…お前誰だ?」
「まさか、…?」
男達の不審そうな呟きに、はっとして今の状況を思い出した彼女だったが、時既に遅く。
今まで限られた者にしか知られていなかった己の肢体とその正体を一同の目に晒してしまった事は変えようもない事実。
かと言って、己の主君の妹君にあたる尚香の裸体を彼等の前に晒すわけにもいかず、相変わらず尚香の前に立ちはだかったまま、は動けずにいた。
「…これを」
そこへ少々慌てた調子で傍に寄って来たのが周泰だった。
主君の妹君である尚香の身体を人目に触れさせては行けないと言う気持ちと、愛しい女の身体を己以外の誰にも見せたくは無いと言う思いとの間で僅か逡巡した挙句、周泰は手に携えて来た己の外套の中に二人をいっぺんに巻き込んだ。
「幼平、すまない」
「取り合えず、服を…」
見知らぬ女の正体がだったと言うだけでも十分な驚きだったのに、外套に包まれる彼女が見せた恥じらいの表情がまた、彼等を驚かせた。
平素からと懇意にしている周泰が彼女の正体を見ても驚かないのには納得が行くが、彼女がその時に見せたその表情は、間違い無く周泰に向けられたもので。
言うなれば、愛しい男以外に肌を許してしまった女が見せるかのような罪悪感に包まれた顔。
「お前ら…まさか…!」
甘寧の絶叫が静かな秘湯に轟くのも無理は無かった。



「…本当にごめんなさい!」
心底申し訳なさそうな表情で頭を下げる尚香に、は苦笑して答える。
「尚香様のせいでは御座いません。それに私は怒っておりませぬ故、そのように頭を下げられると困ります」
「でも…」
それでも自分のした事が取り返しの付かない事態に陥っている事を切に感じる尚香はいくら謝っても謝り切れないものがある。
「尚香、が気にしないと言っているのだ、もうやめておけ」
孫権に肩を叩かれて、尚香はそれでもまだ頭を下げ足りぬ気持ちだったが、孫策と孫権に促されて一泊の宿にと決めた館の、己に与えた自室へと下がって行った。
「あまり、責めてやるなよ」
尚香を自室に送り届ける為に去っていく孫策と孫権が、残る彼等を振り返ってそう言った。
孫家が去って行ってしまうと、その背に一斉に突き刺さる疑問に満ちた視線。
「やれやれ…お手柔らかにお願いしたいものだね」
彼女は小さく苦笑すると、既に仲間達の輪の中に囲まれていた周泰の隣にふわりと腰を降ろした。
「…まさか、が女だとは思ってもいなかったが…」
一番に口を開いたのは呂蒙だった。
「やたらと線の細い男だとは思ってたけどよ…いつもあんな服着てたしな」
そう言ってを見やる甘寧は、つい先程目にしてしまった見間違えとは言えないその裸体を一瞬思い浮かべそうになって慌てて思考を切り替える。
既に偽る必要を無くした彼女は、自前のゆったりとした衣では無く館にて用意された薄い夜着に身を包み、それは身体の線をしっかりと現し彼女が紛れも無く女性である事を証明していた。
「皆を謀っていた事は済まないと思う。だが、これは私が孫家の将になる時に私から申し上げた事。孫家に仕えるからには女を捨てて一介の将としてのみありたい、と。だから私は、此度の事が無ければずっと皆を欺き続けたと思う」
何の躊躇いも無く、また一つの偽りも無い己の気持ちを告げるに、一同は様々な思想を巡らせたのだが、それについて口を挟もうとする者は一人もいなかった。
殿の決意は立派だと思います。貴方は女性でありながら、古くから孫呉に仕える将として、立派でした。そしてこれからも立派であられるでしょう」
流れるように言葉を紡いだのは陸孫だった。
「それはよろしいでしょう。私は殿が女性であった事も、またそれを隠していた事についても何も申し上げるつもりはありません。ですが…」
陸孫を包む何やら不穏な雰囲気に、は勿論周泰さえも背中に薄ら寒いものを感じてしまう。
「お二人のご関係について、私はきちんとした説明を頂きたいのですが?」
今までは彼女自身の事だからと静観を決め込んでいた周泰も、ついに自分に矛先が回ってきたかと、小さな溜息をつく。
「そうだな、その辺の事は是非ともお聞かせ願いたいもんだな」
甘寧までもが陸孫に同意し、凌統も身を乗り出して来た。
さすがに呂蒙や太史慈といった年も落ち着いた者達や、黄蓋のように古くから孫呉に仕えの正体を知っていた者達は二人の色恋沙汰について厳しく問い質そうとも思わなかったが、陸孫や甘寧のような若い者達にはそうはいかず。
なんだかんだ言ってが女であると知った今、何も知らない内にそれが周泰のものになっていたのが気に入らないだけで。
「さあ、殿、周泰殿、説明してもらいましょうか」
恐ろしい形相で詰め寄る陸孫に呂蒙達は苦笑して、あまり苛めてやるなよ、と声をかける。
とは言え、は女を捨てた身であったはずなのに周泰に対して慕情を抱いた事を言い出し辛く、また、周泰も周泰でが男でも女でも構わない程に彼女を愛してしまったなどと言い出せる訳も無く。
なんと言ったものかと悩む二人に、望む答えを得られない陸孫の不穏な空気はますます肥大化して行く。
じっと見つめる三対の瞳に、お互い視線を合わす事すら出来なくて。
なんとも耐えられない空気が蔓延しそうになった頃、周泰は小さく溜息をつくと重たい口を開いた。
「…俺は只、を愛した。それだけだ」
確かに間違った事は言っていないのだが、聞きようによっては誤解されかねない事を告げる周泰には微かに慌てる。
「どういう事ですか、殿。貴女は何も言わなかったのですか?」
問い詰める陸孫に、は観念したように肩を竦める。
「私も、愛していたよ、周泰を。武人として…」
そこまで言いかけた彼女の口を、周泰の大きな手が覆った。
武人として生きると決めたのに周泰に対して慕情を抱いた事、それだけはが己を責める唯一の理由。それを皆まで言わせたくなくて、周泰は言葉を遮ったのだ。
「もういいだろう。俺はを愛しているし、も俺を愛してくれている…それだけの事だ」
周泰はそう言い切ると、の腕を取って立たせる。
「ちょ、幼平?」
「庭に出てくる」
呂蒙にそう告げると、彼はひらひらと手を振って行ってこいと合図する。
その手を取ったまま、周泰はを庭へと連れ出した。
「あれじゃあ…納得しないんじゃないか?坊や達は」
やっと二人きりになれたところで、彼女はそう言って微かに肩を揺らして苦笑した。
「…構わない。知らなくても…良い事だ」
「まぁ、それはそうなんだけど…」
まだ面倒事が続きそうだと溜息をついたを、周泰はきつく抱き締めた。彼にしては珍しく唐突な行動に驚き。
「なっ…何?どうしたのだ幼平?」
「身体を…」
「?」
「俺以外の者に…見せた…」
最初は周泰が何を言おうとしているのか分からなかったが、そこまで言われては気付き、そして顔を朱に染めた。
「そ…それは仕方が無いだろう。あの場には尚香様が…」
「分かっている…だが…」
お前は俺のものだ。と耳元で囁かれれば、それ以上反論の言葉も無い。
不慮の事故とは言えその肢体を晒してしまった彼女の、その光景が今も甘寧、凌統らの脳裏に焼きついているのかと思うと、周泰は感じた事の無い思いに囚われる。
人はそれを嫉妬と呼ぶのだが、周泰は己の独占欲にまだ気付かない。
「幼平は…意外と嫉妬深いのだな。知らなかった」
腕の中で苦笑したにそう言われて、周泰はようやくその感情を知る。
自分ですらも知らなかった思い。だが、まだ一度しか目にした事の無い恋人の身体を他の男にも見られたというその事実は、やはり周泰には耐え難いもので。
「そうだな…俺も、知らなかった…」
そう言って無防備な恋人の剥き出しの首筋に食らい付いた。
「ちょ!幼平!何を…!やめっ、そんな強く吸い付くと…!」
暴れるを押さえ込んで散々そこを強く吸い上げたあと、ゆっくりと身体を離すと、その首筋には見事な赤い跡が。
それを見て満足そうに、俺のものだ、と呟く周泰に、はもう何も言う事が出来なかった。



殿!私では駄目なのですか!?」
部屋に戻るなり陸孫にそう詰め寄られた彼女が、困ったように笑いながらも幸せ一杯の表情で、
「すまない、陸孫。私には幼平しか見えないのだ」
と告げ、それを聞いた周泰が勝ち誇ったように小さく笑みを浮かべたのを見て、陸孫は布団に潜り込み暫くうなされていたとかいないとか。



20100620加筆修正