是身正尽 (是の身の正に尽きぬれど)
我想而不尽 (我が想い而して尽きず)
見風月中 (月の中に風を見て)
見月風中 (風の中に月を見る)
儚哉共花 (はかなきかな花と共に)
散依微小風 (微小の風によりて散り)
似揺湖面月 (湖面の月の揺れるに似たり)
而共月在 (しかれども月は在り)
其限依何散也 (その限り何によりてか散るや)



帰る場所




儚げに詠う声が聞こえてきて、曹操はふと足を止めた。
誰がこの様に切なげな詩を詠うのかと、その人物が気になって声のした方に向かう。
果たしてその先には、花の束を抱いた女がひっそりと佇んでいた。
か…」
彼女が斯くもこの様な詩を詠むとは知らなかったので、曹操は一人ごちるように呟いたのだが、その声はの耳に届いていたようで、ゆっくりと曹操を振り返る。
「これはこれは…」
曹操の姿を認めた女が一礼をしてその場を辞そうとしたのを、その細い腕をそっと掴んで引き止めた。
「今の詩はお主が詠んだものか?」
そう尋ねると、は微かに笑ってはにかんだ。
「はい。お恥ずかしながら…聞かれていたのですね」
「もう一度聞かせてはくれぬか」
「私には殿のような文才はございませぬ故、とてもお聞かせするようなものではございません」
「良いのだ。聞かせてくれ」
主君にその様に言われてしまえばに拒む術は無く、彼女は微か戸惑いながらも先程の詩をもう一度声に乗せる。曹操はその腕に抱かれる花の束に目をやったままそれを聞いていた。
「良い詩ではないか。それはお主の今の心境か」
己が心境かと問われ暫く考え込むように黙っていた彼女は、ややあって苦笑を浮かべて言った。
「自分が戦場に出ていた頃は、よもやこのような思いに囚われるとは思ってもおりませんでした」
魏の名立たる武将の一人としてその武勇を三国に響かせていたは、過日、夏侯惇の妻となった。
晴れて夏侯惇の夫人となった彼女は、その身に夏侯惇の子を宿している事もあって、戦場を退いて今はこうして夫の帰りを待つ身となった。
戦場にあって武器を振り回していた頃は分からなかったのだが、戦場にいる愛しい者を待つ身というのがこんなにも辛い事だとは、思いもしなかった。
翌日まで生きながらえれば良しと思っていたあの頃よりも、愛しい人の無事を祈りながらも何も出来ずにいる日々は、もどかしく歯痒かった。
「すまぬな…。お主に心労をかけさせたくはないが、元譲は此度の戦にはどうしても欠かせぬ戦力…今しばらく耐えてくれ。なに、あやつの事だ、無事に帰ってくる」
そう言われて、は小さな苦笑を浮かべて応える。
「申し訳ございません。殿にまでお気遣いいただいてしまって…。心配はしておりませぬ。あの人はそんなに弱い男ではありません」
そうでございましょう?と尋ねられて、曹操は大きく頷いた。
、良い子を産めよ。元譲とお主の子だ。さぞかし豪の者になるであろう」
「まぁ…女の子だったらいかがなさいますか」
男の子が産まれると決めてかかっているような曹操の言葉にが笑いながら言い返すと、曹操は暫く考え込んで渋い顔をした。
「その時は必ず、お主に似た女子を産め。元譲に似た女子など不憫でならぬわ」
軽口を叩いてから、曹操は彼女に労わりの言葉をかけてその場を後にした。



曹操の姿が見えなくなると、はふと天を仰いだ。
今は遠き戦場にその身を置く、愛しい夫に想いを馳せる。
戦場に於いては何が起こるかわからない。
この様な身になるまでは魏将として戦場に立っていたからこそ、その事は良く分かっている。
それでも、無事に帰ってきて欲しい。
戦場にいた頃は滅多に考える事の無かった思いがあるのに気付く。
胸に抱いた花の束に顔を寄せ、夏侯惇を想う。
彼の事を、彼の無事を。
例え、同じ戦場にはいなくても。
例え、共に刀を振るう事が出来なくても。
どこにいてもこの想いは変わらないと、そう誓える。


「貴方の帰ってくる場所はここなのです…」


想いが戦場の愛しい人に届けば良いと、は空に向かって呟いた。



漢詩は知人にご協力頂きました。大感謝。
20100620加筆修正