お前の過去がどうあろうと。
今目の前にいるのはおれなのだから、と。
貴方が言ってくれるから。



籠の中の鳥はいついつ、出やる




彼女の過去はイゾウも良く知っていた。
大分幼い頃に悪魔の実を口にした彼女は、初めは見世物小屋に。その身が育つ頃には当たり前のように花街に売られた。
人を惑わす事を得意とする化け狐に変化する彼女は、どこへ行っても男の目を引き、自分の意思に関係なくその身を奪われた。
辛かったのだと、逃げ出したいのだと、その時偶然に出会った白ひげに縋った彼女を、もちろん彼は放っておく筈もなく、ナースとして船へと連れ帰った。
海賊船だってロクなもんじゃねェぞ。と白ひげは言ったが、あの廓に比べれば極楽のような場所だと彼女は笑った。
同じ国の育ちだと言う事で、彼女の事を少し気にかけてやって欲しいと船長直々に頼まれれば、イゾウにはもちろん断る理由などない。
白ひげの意向で能力者である事を隠して乗船した彼女は、持ち前の聡さを発揮し立派なナースとなった。
花街での過去を思い出して時折寝付けなくなると言う彼女の為に香を分けてやったり、時にはその話を聞いてやったりしたお陰か、数年経った頃には彼女もすっかり海賊としてこの船に馴染んでいた。
やがて船に『じゃじゃ馬』と呼ばれる少女が転がり込んで来て。
妹のように可愛がっていた彼女は白ひげ海賊団の隊長にまでなって。その傍らで力を揮うと決めた彼女は、もう己の能力を厭ってはいなかった。
0番隊となって戦闘に加わるようになったはナースだった頃よりもイゾウと接する事が増えた。
同じ祖国を持つもの同志気が合った二人の関係が、そういったものになるまでにさほど時間は掛からず、イゾウは欲しいと思った自分の心には酷く素直に行動した。
そうしてあっさりと恋仲と言う枠に収まった二人を見て、マルコなんかは苦笑したものだ。



湯を使ってきた後なのだろう。まだ微かにしっとりとした髪をいつものように結い上げているのではなく、片方の肩にかけて緩くまとめ、薄い着物を羽織っているその姿は酷く扇情的だ。
「そんな格好でここまできたのか?」
妬かせるじゃないかと口角を上げるイゾウには苦笑した。
「誰にも会いませんでしたよ。気をつけて来ましたから」
あとは寝るだけと言ったしどけない姿を、もちろん他の男になど見せたい訳もなく、そこは気を使ってきたのだと告げる。
もちろん彼女が悪戯に男を挑発するような人間でないのは分かっていたから、それは本当なのだろう。
ちょっとしたからかいの言葉だったのだが、至極真面目に応えられてしまえば、イゾウも苦笑するしかない。
部屋に入ってきた彼女に用件を尋ねれば、彼女は懐から煙管を取り出してきた。
「少々寝付けなくて…煙草を吸おうと思ったのですが葉を切らしてしまって。少し分けて頂けると嬉しいのですが」
その言葉にイゾウは、吸い口についた紅を指で拭って今まで自分が楽しんでいたそれを差し出した。
火をつけたばかりのそれはまだ一口しか吸っておらず十分に葉が燻っている。
は一瞬、驚いたような表情を見せたが、直ぐに艶やかな笑みを浮かべてそれを受け取り口をつけた。
ゆったりと肺に煙を取り込み、口からぷかりと吐き出し。
そうして何も知らないまるで子供のような無垢な笑顔をイゾウに向けた。
「間接キス、ですね」
男を惑わし虜にする為の手練手管を一通り身につけている筈の彼女が可愛らしい事を言うものだから、イゾウは思わず目を瞬かせた。
だが直ぐにその唇に笑みを浮かべ。
「ばかだねェ。間接なんかよりも」
ぐいと身体を引き寄せてその唇を奪う。軽く触れるだけのキスをしてイゾウは艶やかな笑みを見せる。
「直接するもんだろう、口付けってのは」
笑みを深くしたイゾウを見て、敵わないと言うように首を左右に振る。
「苦くありませんでしたか」
「甘いよ。この上なく甘いさ、お前の唇はね」
そう言うイゾウこそ甘い言葉をさらりと放つものだから、はほんのりと頬を朱に染めた。
廓に囲われていた頃にもいくつもの睦言を囁かれたものだが、どんな男達からの言葉よりも彼からの言葉が一番嬉しい。
白ひげに助けられ、イゾウに出会えた事が、彼女の幸せだった。
昔は囲われる事が厭わしくて仕方がなかったはずなのに、今はこうして一人の男の腕に囲われる事を至上の喜びとしているのだから、人生とは分からないものだ。
己の体を囲う男の腕を感じ、はうっとりと瞳を閉じる。



籠の中にいた鳥は、再び籠に捕らわれた。
けれど、それは、この上なく居心地の良い籠の中。
鳥はもう、そこから抜け出す気などさらさら無いのだ。



20101013