囲っているつもりが、囲われているのか
虜になっているのは、一体どちらだと言うのか



囲い愛




「渡瀬さん・・・渡瀬さん」
己を呼ぶ声とともに、控えめに身体が揺さぶられるのを感じて、渡瀬の意識はゆっくりと覚醒した。
何度か目を瞬かせてようやくはっきりとしてきた視界に、自分を眠りの世界から引きずり出した少女の姿が映る。
少女は清潔感の溢れるブレザーの制服に身を包み、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。
「お帰りが遅かったから、起こすのはどうかと思ったんですけど・・・」
「ええねん、ワシが起こせっちゅうとるんやから」
ベッドの上でのっそりと身体を起こす渡瀬を、少女は静かに見守っている。
「もう時間か?」
「はい。おじやを作っておきましたから、食べれそうでしたら食べて下さいね」
良く出来た娘だと、二人の事を何も知らない人間が見たらそう言うだろう。
実際のところ、二人はそのくらい年齢が離れてもいる。
だが先程少女が男を呼ぶのに、名前を呼んだ事からも知れるように、この二人は親子などではないのだ。
「今日は何時からや?」
「一時からです。でも、無理しないで下さいね。私、」
「行くちゅうたら行くで、ワシは」
少女の言葉を途中で遮ると、少女は困ったような、だが少しだけ嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「行きますね。遅刻しちゃう」
ちらりと横目で壁掛け時計を確認した少女が、ふんわりとスカートの裾を翻して立ち上がるのを、渡瀬は一言、待てと引き止める。
「はい?」
振り返った彼女を、今しがたまで眠りの中に居たとは思えないような機敏な動きで抱き寄せると、渡瀬はその唇に己のそれを重ねた。
「気ぃつけて行くんやで」
登校前の少女に送るには随分と濃厚な口付けを与えた後で、十分に満足したような表情の渡瀬は少女に優しく声を掛ける。
まだ女にもなりきれていない少女は耳まで赤くして、言ってきます、と小さな声で告げ、逃げるようにパタパタと足音を残して出て行った。
自分の周りでは見られないような初々しい反応に気を良くしたのか、渡瀬は笑みを浮かべたままベッドを降りた。日付が変わってから帰宅した渡瀬としては短い睡眠時間だったが、二度寝をする気にもならない。
リビングへと向かうと、先程冷蔵庫から出したばかりであろうミネラルウォーターがテーブルの上に置いてある。
本当に、良く気が利く女だと思いながらそれに手を伸ばすと、その下に敷かれていた紙切れに目が留まる。
四つ折りにされていたそれを広げ、ペットボトルの蓋を空けながら目を通す渡瀬の口角が持ち上げられた。
「可愛えぇ事しよるやないか」
参観日のお知らせと書かれたプリントを直接ではなく、だがしっかりと彼の目の届くところに残していった彼女が、愛しい。



無駄に周囲を威嚇したいわけではないが、渡瀬程の体格のいい男が黒塗りの高級車から降りてくれば、周囲にいた人間がぎょっとした視線を送るのも仕方の無い事だろう。
それでも、いつもの白いスーツではなく控えめなグレーのスーツを着用し、サングラスも車内に残してきたのは、ただ偏に彼女の為だ。
「親父、本当に護衛をつけなくてええんですか?」
「アホ、そないな事したら回りにええ迷惑やないか」
心配そうに尋ねる部下をばっさりと切り捨てる渡瀬だが、こんな普通の学校にヤクザの、しかも組長が姿を現すだけでも十分に迷惑だと、部下は心の中で思う。
もちろん、思うだけで間違っても口には出さないが。
「それに、こないに堅気さんがようさんおる中で手ぇ出してくるアホもおらんやろ」
渡瀬程の男ともなれば敵も多い。だが、堅気を巻き込んでまでこの場で彼をどうこうしようと企む者もそうそうはいないだろうと。
「十分気ぃつけてください、親父」
行ってらっしゃいませ、と頭を下げる部下を残して、渡瀬は校内へと足を踏み入れた。
黒塗りの車が行ってしまえば、渡瀬はいくらか厳ついだけの誰かの父親に見えなくも無いのだろう。
先程よりかはいくらか己に向けられる視線が減ったように思う。
それでも怯えたようにちらちらとこちらを伺う視線が全く無くなったわけではないが、怯えたいやつは好きなように怯えていればいいと思う。
それで、彼女に降りかかる面倒事が減るのなら、渡瀬はいくらでもそうするだろう。
、と言う名のその少女を渡瀬が引き取り後見人となったのは、彼女が17になったばかりの頃だった。
親に捨てられたのか先立たれたのかは知らないが、施設で育ったただの少女の何が目に留まったのか、渡瀬自身にも未だに分からない。
ただ、いつ目にしてもふんわりとした笑顔を絶やす事の無い彼女がいて。
強く風が吹けば攫われてしまいそうな程に儚く見える彼女が、何者にも蹂躙される事のない柔らかな芯を持っているとか。
自分の人生を悲観するでもなく、誰かに恨み事を言うでもなく、ただただ与えられた命をまっとうしているだけだとか。
そんな彼女に酷く惹かれているのは確かで、気付けば渡瀬は彼女の後見人と言う立場をとってまで、彼女を手元に置いていたのだ。
年の割には達観しているところがあるとは思うが、それは彼女の境遇を考えれば仕方の無い事であろう。
たとえ、渡瀬が何者であろうとも、どこの馬の骨とも知らない自分を拾って、面倒まで見てくれる彼に、彼女はいつでも感謝していると言った。
彼女と暮らし初めてから半年が過ぎる頃にはすっかり渡瀬は彼女に惚れてしまっていた。
随分と年は離れているし、余所の目には親子にも見えるであろうが、渡瀬にとっては些細な事ですらない。
面倒を見てもらっているせめてものお礼にと、料理を覚えた健気な彼女が愛しくて、自分の帰りがどんなに遅くなろうとも、翌朝出掛ける前には見送りをするから必ず起こすようにと決めたのも渡瀬だ。
初めからそうするつもりは全く無かったが、いつしか渡瀬はこの女しかいないとまで思うようになっていた。
そんな彼女が、酷くおどおどとした様子で、参観日があるのだと告げてきたのは丁度一週間前の事。
高校生になっても参観日があるとは、と渡瀬は意外に思ったが、自分の頃がどうであったかなどとうに忘れてしまっていたし、高校生活最後の様子を改めて保護者に見てもらおうというのが学校の方針であるならば、とやかく口を挟む事ではない。
はその参観日に渡瀬に来て欲しいと願った。彼女の後見人とは言え、渡瀬がどんな男であるかも知っていて尚。
物心付いた頃には既に施設で暮らしていた少女にとって、参観日は自分が独りである事を思い知らされるだけの、苦痛な日でしかなかった。
けれど、今は違う。渡瀬と言う、自分を保護してくれている男がいる。
だから最後の機会に、もし、叶うのであればと。
至極控えめな、彼女にしては珍しい願い事を、渡瀬が一つ返事で了承したのは言うまでもない。
教室に辿りつき後ろのドアから中に入れば、いつもより人が多いせいか教室の中は少しばかり蒸し暑く、渡瀬はジャケットを脱ぎながら空いている(勝手に空いたとも言う)場所に陣取った。
誰の親が入ってきたのかと背後を振り返る視線の中にの姿を見つけ、渡瀬の顔に舎弟達も見た事はないであろう柔らかな笑みが浮かんだ。
視線が絡むと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、そして口元だけで「渡瀬さん」と彼を呼ぶ。
体格が良く強面な男が入って来た事にちらちらと好奇の目を向ける生徒達もいたが、最早渡瀬の目には彼女の姿しか映っていなかった。
程なくして担任の女教師が入って来る。
女教師は教室の最後尾に陣取っている大人達を一通り見渡し、その中に渡瀬の姿を見つけると一瞬驚いたような表情を見せたが、直ぐに何事も無かったかのように授業に取り掛かった。



「渡瀬さん、ちょっとよろしいですか?」
授業も終わってしまうと、渡瀬を避けるようにそそくさと他の親達が退出していく中、ゆったりとした足取りで教室を出た彼を呼び止めたのは、の担任を務める教師だった。
の後見人となっている渡瀬は、何度か面談で会っている。
渡瀬が、無駄に堅気に手を上げるような男では無いと知っている彼女は、他の一般人よりはいくらか話しの通りやすい相手だと、渡瀬は記憶している。
「なんでっしゃろか」
わざわざ渡瀬のような男を呼び止めてくるのは、の事でしかないだろうから、渡瀬も真摯に教師に向き直る。
さんの、進路の事なんですが」
そう言って女教師が差し出した一枚の紙は、進路希望を書くためのものなのだろう。
彼女ももう高校三年生になるのだから、このように進路の事についてあれやこれやと周りからも言われるだろうし、自分でも色々と考えているのかもしれない。
第一志望から始まって、形式どおりに第三希望までを書き込む空白が三つ並んでいる。
だが、その紙は最初の欄しか埋まっていなかった。
しかも唯一埋まっているその欄には、『渡瀬さんのお嫁さん』などと書かれているものだから、思わず渡瀬は声を上げて笑ってしまった。
「笑いごとじゃないです、渡瀬さん。渡瀬さんの『ご職業』の事に関しては私も良く存じているつもりですし、さんの境遇も十分に理解しているつもりですが、彼女はまだ18です。できれば彼女の将来、可能性を狭めないでいただけたら・・・」
「センセ」
相手が誰であるかを理解しているつもりの女教師が彼の機嫌を損ねる事のないようにと、出来るだけ丁寧な言葉を並べるのを、渡瀬は低い声で遮った。
「確かに、は将来このワシの・・・ヤクザの女房になる女ですわ。せやけどワシはそれを強要した事は一度もおまへん。それは紛れもないの希望や。せやったら本人の意思を尊重してやってもらえまへんか」
渡瀬の言葉に、女教師は呆気に取られたような表情を見せたが、これ以上は何を言っても無駄だと理解したのだろう。ただ一言、そうですか、と告げた。
話は終わったとばかりに校内を去る渡瀬の背に、聞き慣れた声が掛けられたのは、校庭を横切っている時だ。
か」
振り返れば慌てたように彼を追いかけて来る彼女の姿。
そんなに慌てて追いかけてこなくてもどこにも行きやしないのに、と渡瀬は一人ごちる。
「お忙しいのに来てくれてありがとうございます。私、嬉しかった」
そう言って本当に嬉しそうに微笑む彼女のその顔が見れただけでも、今日わざわざここに足を運んだ甲斐があるというものだ。
誰にも言わないけれども。
「今日は早めに帰るわ。夕飯は、肉じゃががええ」
まるで夫婦のような台詞を吐いた渡瀬は、それでも彼女に口付けたくなる衝動を押さえ込んで、やんわりとその頭を撫でるにとどめた。
「わかりました。では、お買い物してから帰りますね」
「頼んだで。ほな、後でな」
校舎に戻って行く彼女を見送ってから踵を返せば、既に校門の前には黒塗りの車が待ち構えている。
次の瞬間にはもう、極道の男の顔になった渡瀬が、帰宅した後に待っているであろう彼女と彼女の作った肉じゃがを楽しみにしていると言う事実は、彼本人しか知らない事である。



渡瀬さんと幼妻いいよね。幼妻にべた惚れな渡瀬さん可愛い。
20121214