目が覚めれば酷い頭痛に見舞われ、昨夜は飲みすぎた、と溜息をつくその間にも、己の隣にある体温に気が付いて張遼は頭を抱えたくなった。
だが次の瞬間、それが誰であるかを知り張遼は青ざめる事になる。



君の往く道:前




思わず声を上げそうになるも、彼女が未だ眠りの中にあると気付いて必死で声を押さえる。
人違いであったら良いと僅かな期待を込めて、張遼に背を向けているその丸い肩の向こうを静かに覗き込むが、それはその女が誰であるかを明確にしただけで、己の心にはかえって逆効果の行動である。
「私は、なんと言う事を・・・」
思わず小さな声が漏れた。
薄い掛け布から覗く滑らかな肩は剥き出しのままで、その下も何も身に纏ってはいないのだろう。かく言う己も何も身につけておらず、最早言い逃れもできない状況だ。
だが彼女は曹家に代々使える古参の将で、間違っても酒に飲まれて床に引きずり込んで良い相手ではないのに。
なんと声を掛けたら良いのかなんと詫びるべきなのか、いやむしろ詫びの言葉などでは足りないのではないかと張遼が逡巡している間にも、彼女の肩が揺れた。
「ん・・・」
まだ思考の整理も出来ずその場で動けなくなっている張遼を余所に、女は身を起こしそしてこちらを振り返る。
「おはよう、張遼殿」
この状況では場違いとも言えるべきその言葉があまりにも当たり前のように発せられるものだから、張遼はまた言葉を失ってしまう。
そんな男を見て、女は笑うのだ。
「予想はしていたけど、思った通りの反応だね。昨夜の事は覚えていない?」
覚えているいないの話ではない。男女が一糸纏わぬ姿で床を共にしていて、『何もありませんでした』などと通用する訳がない。
「いや・・・そんな事は、・・・それよりも何か着て下され・・・!」
身を起こした事で滑り落ちた掛け布は、最早彼女の肢体を隠すのに何の役にも立っておらず、艶かしい身体は張遼の目の前に惜しげもなく晒されている。
勢い良く首ごと視線を外した張遼に苦笑しながら、彼女は寝台の下に落ちていた着物を拾い上げた。
殿、私は、」
「張遼殿、」
詫びる言葉など無かったが、それでも彼女に謝らなければ気が済まないとでも言うような張遼の、その言葉を遮った彼女の声が聞いた事も無い厳しくはっきりとしたものだったから、張遼は思わず身を固くする。
だが、非は明らかに己にあるのだ。どのような罵倒も受けるのが道理だろうと、大人しく口をつぐんだ張遼に、は小さな笑みを向ける。
「謝らないで欲しい。張遼殿の気はそれで晴れるかも知れないが、それでは私の心が泣く」
「なっ・・・!」
そのように言われてしまっては最早何も言う事が出来ない。
驚きに目を見開くばかりの張遼を尻目に、彼女は手早く着物の帯を締める。
「忘れたければ忘れてくれて構わない。けれど、謝る事だけはしないで欲しい」
忘れていいだなどと、そんな事を言って背を向ける彼女に、張遼はかける言葉を見つけられないまま、部屋を出て行くその背を見送るしかなかった。
殿・・・私は・・・」
先程と同じ言葉を発したその口は、だがそれ以上の言葉を紡ぐ事は出来なかった。



あの日から丸二日が過ぎたが、彼女は何一つ今までと変わる事は無かった。
廊下や鍛錬場で顔を合わせれば気さくに声を掛けてきたし、曹操や他の武将達から処罰や叱責を受ける事すらなかった。
あの夜は本当は何も無かったのではないかと思わせるような彼女の態度。だがしかし、張遼ははっきりと覚えている。
どのようにしたか、どんな言葉を交わしたのかは記憶にないが、それでも彼女の柔らかな肌の感覚を、甘い声で何度も己の名を呼んだ彼女の声を、頭のどこかではっきりと記憶しているのだ。
忘れて良いと、だが謝るなと言った彼女の真意がどうしてもわからず、張遼は悶々とした日々を過ごしていた。
考えれば考える程深みにはまる思考を、その滓を払うように鍛錬に打ち込む張遼の元に、その日は夏侯惇がやってきた。
「程々にしておかぬと身体を壊すぞ、張遼」
彼はと同じように、張遼に気さくに接してくる数少ない武将だ。
未だ、張遼の事を『敗軍の将』『呂軍の将』と後ろ指さす者は多い。
「夏侯惇殿」
「浮かぬ顔だな、張遼。何か思い悩む事でもあるのか」
顔を見るなりそんな風に言われ、それ程までに表に出ているのかと思うが、張遼がここ最近ずっとその事――の事ばかりを考えているのは事実だ。
「些細な陰口など聞き流しておけばいい」
そう言われて張遼は苦笑した。
呂布に仕え、彼と共に散々に曹操の手を煩わせた己がその曹操に下る。その事での多少の誹りは覚悟したし、いらぬ声を聞きたくなくて人との距離をとっていた時もあった。
だが今はその事すら忘れてしまう程、他の事を。
忘れて良いと言った彼女の真意ばかりを考えていたのだ。
「その事についてはもう、杞憂しておりませぬ。いずれは我が武にて、忠を示せば良いだけの事」
「ほう」
意外そうな表情を浮かべた夏侯惇に、だがとの事を相談できる訳も無く、張遼は誤魔化すように声をかける。
「夏侯惇殿、お手合わせ願えますかな?」
「よかろう。手加減はせんぞ」
興が乗ったと言わんばかりににやりと口角を吊り上げる夏侯惇が武器を構えるのに倣い、張遼も構えを取る。
曹魏に於いても有数の武を前に、張遼の思考から彼女の事は霧消した。



手加減はしないと言った言葉通り、夏侯惇からの打ち込みは手合わせと言えども容赦がない。
互いの刃は何度も相手の肌を掠め、時には火花を散らしてぶつかり合い、そして鍔せり合う。
苛烈とも言える打ち合いに、周りの兵士や武将達も息を潜めて二人を見守っていた。
そしてその中に。
己が武器とする双剣を携え、夏侯惇と張遼のやり取りにじっと視線を注ぐの姿もあった。
「!!」
彼女のその姿に気付いてしまった張遼の気が削がれる。
夏侯惇との打ち合いに集中していなかったわけではない。だが何故か、彼女の存在に気付いてしまったのだ。
「どうした張遼。気が乱れているぞ」
互角に鍔せり合っていた張遼の体勢が崩れたのを、見逃す夏侯惇ではない。
気合を込め、一息に張遼を押し返すと、体勢を立て直す張遼に向けて素早く次の一手を繰り出す。
だが張遼もそのままでは終わる筈も無く、揺らいだ刃をなんとか立てなおし振り下ろされる刀を横からはたくようにして薙いだ。
「ぬうっ!」
気合一献、切っ先を削がれたと知った夏侯惇が、刀をあきらめその拳を張遼の胴に叩き込む。
「ぐっ・・・!」
まさかここで素手が出てくるとは思ってもいなかった張遼は、それに反応しきれずまともに拳を受けて息を詰まらせた。
思わず武器から手が離れ、それにて手合わせは終了。
吹き飛ばされはしなかったものの、片膝をついた張遼に夏侯惇が手を差し延べる。
「かたじけない」
僅かに咳き込みながらその手を借りて立ち上がった張遼の元に、と、そしてやはり側で見ていたのだろう、夏侯淵が歩み寄ってきた。
「いやあー二人とも凄いもんだ。思わず見入っちまったぜ」
賞賛の言葉を送る夏侯淵に、も同意を示して深く頷く。
「良いものを見せてもらった。是非とも私の相手もして欲しいものだ」
それがどちらに向けて発せられた言葉なのか、僅かに張遼が惑う間に、夏侯惇が口を開く。
「俺も張遼も今しがた打ち合ったばかりだぞ。いくらお前が相手でも分が悪いわ」
「またまた。ご謙遜を夏侯惇将軍」
軽口を叩き合う二人に手合わせの話はうやむやになってしまい、どこかほっとしている自分がいる事に張遼は気付いていた。
「それでは妙才に付き合ってもらうかな」
「おっ、いいぜ!手加減はなしだからな!」
「少しくらいは手加減して欲しいものだね。私は女だぞ?」
「そう言って土をつけられた相手も多いからなぁー!」
茶化し合いながら今度は夏侯淵とが対峙するのを余所に、夏侯惇と張遼は鍛錬場の隅に生えている木の下に腰を下ろした。
お前も少し休め、と連れられて来てしまえば、張遼に拒む事は出来ない。
「先程は何に気を取られたんだ?」
木陰に陣取って目線は達に向けながら、夏侯惇が不意に口を開く。
「いえ・・・」
あそこで他の何かに気を取られる事が無ければ、押し切られる事もなかっただろうにと問いかける夏侯惇に、よもやを見ていたとも言える筈も無い。
だが鍛錬場に目を向ける張遼の、その視線が彼女ばかりを追いかけているのに気付いて、夏侯惇は人の悪い笑みを浮かべた。
か」
その名前を出した途端に跳ね上がる肩を、見逃すような夏侯惇では無い。
「申し訳ござらぬ。決して貴殿との打ち合いに集中していなかった訳では・・・」
生真面目にもそう詫びる張遼に、苦笑する。
「別に責めているわけではない。だが、珍しいな。貴様がよもやあいつに気を取られて集中を乱すとは」
曹操に下ってまだ日も浅い張遼の事を、彼女が何かにつけて気に掛けていたのは知っていた。
それが彼女の常であったし、その事によって曹操の目が行き届かない部分が補われているのも事実。
とは言え、張遼の集中を乱すような事が、二人の間にあったのだろうか。
は慕う者こそ多いものの、女にしては多少豪放とも言える性格で、浮いた話など何一つありはしない。
また、張遼も、新参者である上に生真面目な性格で、そのような話題に彼の名前が挙がる事があるのかすら怪しいものである。
それでも張遼がに対して見せた動揺は明らかで、今も何やら思いつめたような表情で夏侯淵と武器を合わせている彼女を見つめているのだから、勘繰るなと言う方が無理な話だ。
だが当の本人は固い表情のまま口を閉ざしてしまったので、夏侯惇にはもう、その先を聞き出す術はなかった。
これが曹操だったら何が何でも彼に口を割らせるのだろうな、などと質の悪い君主の事を思いながら、肩を竦めるしかない。



自棄酒して酔った勢いで、手を出してはいけないような人に手を出してしまった遼さんが書きたかったようです。
ツイッターにそう、メモしてありました。
20120801