歳の割りに、と言ったら失礼かもしれないが、きっと彼ならただその特徴的な笑い声を上げるだけだろう。



夏に揺れる青い金魚鉢




夏島の海域に入って「暑い」と零した彼女の為に、彼が用意したのは一つの金魚鉢だった。
あのドンキホーテ・ドフラミンゴが、だ。王下七武海のドフラミンゴともあろう男がだ。
自分の船に囲っているたった一人の女がぽつりと漏らした言葉に対して金魚鉢を持ってくるなど、この世界の誰か一人でも予測できただろうか。
彼女が着ている時代錯誤な仰々しいドレスを脱げとも、窓を開けて風でも入れてみたらどうだとも(潮風で髪が痛むからと彼女は決して窓を開けようとはしない)、その美しくも長い黒髪を切ったらどうだとも言わずにだ。
ドフラミンゴが金魚鉢を持ち出してくるとは思っていなかったが、確かに水の中でヒラヒラと長い尾をくねらせて泳ぐ魚を見ているのはなんとなく気持ちが涼やかにはなる。
それにしても、彼にしては随分と可愛らしい物を持ち出してきたものだ。彼の性格の事からしても、それから歳の事からしても。
最初、彼がそれを持って部屋にやってきた時はそのアンバランスさには大きな瞳をこれでもかと見開いて、チェストの上にいそいそとそれを設置するその姿に思わず見入ってしまったものだ。
そんな彼女の様子が楽しかったらしく、彼は至極上機嫌で笑い声を零していたが。
「貴方、そんなに私が好きなの」
視線を鉢の中の魚にやったままそう尋ねれば、隣にドフラミンゴが腰を降ろしてきてソファがぎしりと悲鳴を上げた。
「オイオイ、何回言わせりゃあ気が済むんだ?てめェへの愛の言葉なんて吐き気がするくらいくれてやったはずだぜ?」
「私は強欲なのよ。愛を告げる言葉なんていくら貰ったって構わないわ」
そう応えてやると彼はいつもの特徴的な笑い声を上げ、そしてその長い指で女の顎を掬う。
「愛してるぜ、。お前が欲しくて堪んねェよ。さっさとおれのモンになっちまいな」
女の視界が濃い色のサングラスに埋め尽くされ、いつもながら見た目とは違って大分柔らかな感触が唇に触れる。
そうしてぬるりとした感覚と共に口内に彼の舌が入り込めば、後はいいように翻弄されるだけ。
見た目通りと言えばいいのか無駄に歳を重ねてはいないと言えばいいのか、兎に角抗う事も応える事もできないくらいに好き勝手に口内を荒らされるのだ。
長い舌がのそれを捕らえ、絡み付き、吸い上げ、かと思えば不意に優しく、撫でるように。
最後に歯列をなぞって離れて行く彼の舌先を、熱に浮かされぼんやりとした表情で眺めていると、不意にそのサングラスの奥から強い視線を感じは思わず瞳を閉じる。
もう既に、心が堕ちている事などお見通しだと言わんばかりのその視線を、瞳を伏せる事でやり過ごそうとしている己はなんて滑稽なのだろう。
堕ちて来ないものをいつまでも手元に置いておく程、酔狂な男ではないのだ。
彼に愛など囁く事をしようとしない彼女をここに置いていると言う事は、きっと彼にはの心の在り処など知られてしまっているのだろう。
それでも意地になってそれを認めない女と、それを知っていて尚何も言わずに彼女を手元に置き続ける男も、どちらもお互い様だ。
「暑いわ」
近くにあるドフラミンゴの体温に思わずそう呟くと、彼はフッフッフ、と笑いながらゆっくりとその身を引いた。
「このおれにキスをされながらそんなつれねェ事を言うのはてめェくらいだぜ」
最後まで顎にかけられていた指が離れていってしまうと、ようやくは深く息をつく。
できる事ならば、なるべく長い間こうして彼には素っ気無い態度を取っていたかった。
それが強がりであると彼に気付かれていたとしてもだ。
最後の一線を越えてしまえば、後はどこまでも堕ちていくだけだと分かっているから。
女が自分の事を強欲だと言ったのは決して揶揄や冗談ではない。
それは本当の事で、そうなってしまえばきっと彼女はドフラミンゴよりも貪欲になれると言う自覚がある。
だからこうしていつだって、どんなに彼から愛の言葉を囁かれようとも決して靡いたりはしないと言う態度で、女王然として彼に対峙する。
「そんなに暑けりゃ次は冬島にでも行ってみるかァ?」
「そうしたら今度は『寒い』って言うだけだわ」
ドフラミンゴが立ち上がった事でできたソファのスペースに脚を上げ、肘掛に肘をついてゆったりと寛ぎながら視線を再び金魚鉢へと向ける。
「フフフッ、とんだ捻くれモンだぜ。おれの女王様はよ」
大股でたった数歩で鉢のところまで辿り着いたドフラミンゴがおもむろにその指を水に突っ込みぐるぐると中をかき回すと、それに驚いた魚が鉢の底へと避難する。
何が面白いのか笑いながら子供じみた事をしている彼をただじっと眺める。
いつの間にか指の動きを止めていたドフラミンゴの指はそれでもまだ水の中に浸されたままで、水の流れが収まってくると水底にいた魚が彼の指に興味を示して寄って行く。
それを見ていたドフラミンゴが今度は大声で笑い出したものだから、思わずもびくりと反応してしまう。
「可愛いじゃねェか、なァ?」
その言葉は誰に向けられたものかはっきりとはしなかったが。
水の流れを荒らされたにも関わらず、事が収まってしまえば何事もなかったかのようにその指に寄って行った魚か。
既に堕ちた心を隠していつまでも虚勢を張るか。
手に入れた女をこれでもかと甘やかし、たっぷりと愛の言葉を与えてやる己自身か。
「てめェが死ぬまで愛してやるぜ」
彼女を振り返る事も無くドアへと向かって行ったドフラミンゴがそんな言葉を残して部屋を出て行った。
「私が死ぬまで…ねェ…」
彼女の残りの人生全てを毛頭手放す気などないのだと言うその言葉に、は目を細めた。
ひらりひらりと尾びれを靡かせて水の中をうろうろとする魚を眺める彼女の唇にうっすらと笑みが浮かぶ。
「確かに、可愛いわ。本当に、ね」
こんな面倒な女に望む物を全て与えてくれるあの男が、可愛らしく、そして愛おしい。
もうそろそろ、その言葉を告げてしまおうかと女は思案する。
そうしてどこまでも貪欲に彼の愛を強請る彼女を、ドフラミンゴはそれでも可愛いと言ってくれるだろうか。
「ねぇ、ドフラミンゴ。貴方が好きよ。愛しているわ」
それでも今はその告白を聞いていたのは金魚鉢の中の魚だけで、魚は何事もなかったかのようにひらひらと水の中を行ったり来たりしているだけなのだ。
「ああ、本当に、暑い事」
小さく呟いて女はソファから足を下ろした。
ドレスの裾を軽く手で払って整えてからゆっくりと腰を上げる。
そうして今しがた思い立った行動を実行に移す為に、甲板へと出て行った彼の後を追う。
愛の言葉を告げられたドフラミンゴの、至極楽しそうな笑い声は、鉢の中の魚の元まで届くのだ。



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20101227