桐生一馬の受難




一体どうして、こんな事になってしまったのだろうかと、深い溜息をつきそうになって桐生は慌てて口を閉じた。
今の自分はホストなのだ。客の前で辛気臭い顔をするなどもっての他。
幸い女は差し出されたメニューに視線を落としこちらの様子には気付いていないようだったから、その隙に吐き出しかけた憂鬱を飲み込む。
何やら裏で怪しい動きを見せるホストクラブを救って欲しいと頼まれ引き受けたは良いが、慣れないキャッチ活動に辟易していたところに彼女の姿を見止めた。
そこまでは良かったのだが何が気に入ったのか、最後に声を掛けた女にどうしても桐生に相手して欲しいのだと、そうでなければ店には行かないとまで言われてしまい、新入りとしては異例ではあるが、こうして女の隣に侍っている次第である。
「カズマさんって、お酒は飲めるほうですか?」
不意に声をかけられて意表を付かれた桐生は、ややうろたえながら頷いた。
「ええ、それなりには」
そう応えると、女はにっこりと笑みを浮かべてウィスキーのロックを注文する。
ボーイにオーダーを頼んで女へと視線を戻すと、彼女は鞄から煙草の箱を取り出していた。
自分がホストである事を改めて思い出し、ジャケットからライターを取り出して火を差し出すと、女はありがとう、と笑みを見せて煙草に火を移した。
見たところ彼女は自分より一回りは若いようだし、きっちりとスーツを着たその様からは、煙草を嗜んだり強いウィスキーを好むようには見えなかったのだが、女とは見かけによらないものだ。
「煙草を吸うようには見えない、って顔してますね。それから、見た目に反して強いお酒を飲む、とも」
「すみません、失礼な事を」
小さく肩を揺らして笑っているから気分を害したと言うわけではなさそうだが、不躾な視線を送ってしまった、と謝罪の言葉を口にする。
「いいんですよ。そう言う風に見せているんです、普段は」
女はそう言って綺麗にまとめ上げていた髪をばさばさと解いてしまった。
長い、明るい茶色に染め上げた髪を手で後ろに払い、かけていた銀縁の眼鏡も外してしまうと、確かにどこか取り繕った雰囲気が消え失せている。
どうやら彼女はオンとオフをきっちりと切り分けるタイプの人間らしい。
「眼鏡無くて大丈夫なんですか?」
鞄から眼鏡ケースを取り出して眼鏡をしまう彼女を見ながら尋ねると、女はまた肩を揺らした。
「伊達です、これ。私の仕事、格好だけでもきっちりしていないと、舐められる事もありますから」
「お仕事は何をされているんですか?」
「なんだと思います?」
訊いたつもりが逆に問いかけられてしまって、桐生は彼女をじっと見つめながら考え込んでしまう。
だが女の見た目からは全く答えが想像できず、口を閉ざしてしまった桐生に、彼女はふふ、と悪戯な笑みを零す。
「ごめんなさい、質問に質問で返すなんて意地悪でしたね。社長秘書やってるんです」
「若いのに、しっかりしてるんですね」
お世辞でもなんでもなく、そう思ったから素直にそれを口にすると、彼女は僅かに頬を染めた。
「褒めても何も出ませんよ?」
「いえ、俺はそんなつもりは…」
「素ですか?それはそれで質が悪いですね、カズマさん」
女を口説いているとも取られ兼ねない台詞を吐いたと気付いた桐生が思わず閉口してしまうと、女は三度肩を揺らす。
「カズマさんって、あんまりホストらしく見えませんね」
からかうような口調でそう言った女に、それはそうだろう、と心の中で思いながらも、なんと言ったものかと悩んでいるとボーイが先程注文した酒を運んで来た。
「乾杯、しましょう」
これ幸いとばかりにグラスを手にすると、彼女も桐生に倣ってグラスを持つ。
軽く音を立ててグラスを合わせると、彼女は最初の一口を随分と豪快に喉に流し込んだ。
「んー。美味しい」
「いい飲みっぷりですね」
「お付き合いで飲んでいるうちに随分強くなってしまって。弱いお酒じゃちっとも酔えないんですよね」
女としてはどうなんでしょうと苦笑いを浮かべ、酒に強い事を気にしている彼女は年相応の女性に見えて、可愛らしく見える。
「直ぐにつぶれてしまうよりはいいんじゃないですか」
そうフォローをしてやると、彼女は嬉しそうに桐生へと視線を向けた。
「本当にそう思います?」
「一緒に酒を楽しめるなら、それもいいと思います」
「ふふっ。カズマさんがそう言う風に言ってくれる人で良かった」
機嫌が良くなったのかニコニコと笑っている彼女に、桐生は何か話題を振らなければならないとは思うのだが、いかんせん女性を楽しませるような役割などした事が無いし、生来口数が多い方でもないからついつい聞き手に回ってしまいそうになる。
「カズマさんって、あまり自分からお話する感じじゃないですね」
「すみません。あまり慣れていないもので」
「ああ、責めているわけじゃないんです。それに、カズマさんならじっくり話を聞いてくれそうだったから」
だから、桐生についてくれるように頼んだのだと言われ、ならば彼女の話を聞いてやるかと深く椅子に座り直す。心の内を吐露する事で美味しい酒が飲めるようになるならば、自分も役目を果たしたと言えるだろう。
「何か、あったんですか?」
「神室町って、ヤクザが多いじゃないですか」
愚痴の一つでも聞いてやれば彼女の気も晴れるだろうかと尋ねてみると、思わぬ言葉が飛び出して来て、桐生は思わず口に入れたばかりの酒を噴出しそうになるのを必死に堪えなければならなくなった。
まさか自分もその一人だったとは口が裂けても言える筈も無く、平静を装って重々しく頷きながらなんとか口に含んだ酒を喉の奥へと流し込む。
「最近、ちょっとお仕事でそんな方とお知り合いになったんですけど」
その言葉に、桐生の脳裏はあっと言う間に知り合いの顔で埋め尽くされた。
神室町を根城にしているヤクザと言えば桐生も知っている顔の方が多く、その中の誰かが彼女と知り合いだとは自分もとんでもない女を捕まえて来てしまったと思うが、時は既に遅し。
「なんだか、私、その人に妙に気に入られちゃったみたいで」
「そ、そうなんですか…」
一体こんな堅気の女に付きまとうヤクザとは誰なんだと、桐生は次々と知った顔を思い浮かべる。
(大吾ではないだろうが…まさか柏木さんか?柏木さんと彼女では随分と年が離れているが、だが彼女ほど落ち着いている女性ならばそれも…)
悶々と考えを巡らせる桐生の耳に、だが次の瞬間衝撃的な言葉が飛び込んで来た。
「表向き、建設会社って事になってますけど、絶対その筋の方だと思うんですよねぇ」
神室町で建設業を営んでいるヤクザと言えば、桐生の頭にはもうとある男の姿以外に浮かぶものは無い。
(まさかの真島の兄さんかっ…!)
彼女の言う男が誰であるのか悟ってしまい、盛大に咳き込む桐生の背中に彼女の手が回り、宥めるように撫で擦る。
「大丈夫ですか?」
「ああ…大丈夫です、ちょっと酒が変なところに…」
柔らかく背中を撫でる手をやんわりと押し戻しながら、桐生は思う。
あの真島が女に執心するとは意外だが、その彼が気に入っている女を自分がホストクラブなんぞに連れ込んだ事があの男の耳にでも入ったら。
思わず背筋が寒くなった気がして、桐生は微かに身を震わせた。
「そ、それで、その男には何か迷惑でもかけられたんですか?」
それでも女が嫌がっているようならば、自分からも真島に一言言っておいたほうが良いだろう、とどこか人が良すぎるきらいのある桐生が尋ねる。
「いいえ、迷惑なんて。そんな事はないんですけど、」
横柄な態度で彼女を困らせているのではないかと危惧したが、意外にも紳士的に彼女に接しているのだと知った桐生がほっと安堵の息を吐いた次の瞬間。
「嫌いになれないから、困ってるんです」
桐生自身も良く知っているその男が、堅気のしかも女性に無駄に力を振りかざしたりしないのは知っていたが、まさか彼女の方からそんな言葉が出てくるとは思わず、桐生は呆気に取られた表情で彼女を見てしまった。
これはもしかしてひょっとすると、脈ありと言うやつなんだろうか。
「怖くはないんですか?」
それでも、彼女からしてみれば真島と言う男は住む世界が違いすぎる人間だし、破天荒なところがあるのは事実で。
そんな男と共にいる事に恐怖を覚えたりはしないのかと尋ねてみると、彼女はどこか含みのある笑みを浮かべた。
「煙草を覚えたのも、強いお酒を好むようになったのも、それなりの経験があるって事です」
そう口にした彼女に桐生は、自分たちと同じ裏の世界に生きる者特有の臭いを感じて、本当に見かけによらないものだと小さく唸った。
「これ、カズマさんと私だけの秘密ですよ。誰にも言ってないんです」
思わぬ秘密の共有に、桐生の脳裏に再びあの男の姿が濃く浮かぶ。
彼女とこんな話をしている事が知れたら、本当に無事ではすまないかも知れない。
頼むから、これ以上真島の地雷となるような話はしないでくれ、と心の中で願うしかなかった。



幸いにも、あの後彼女の口から真島の話が出て来る事は無く、今回はお試しで、と初めに言っていた彼女は延長もする事無く、時間を告げられて大人しく席を立った。
店先まで見送る桐生と二言三言交わしてから、小さくお辞儀をして背を向ける彼女に、思わず安堵の息をつく。
「桐生チャーン」
角を曲がった彼女の姿が見えなくなった瞬間、今一番聞きたくはない男の声がして、桐生は錆付いた機械のように緩慢な動きで背後を振り返った。
「ま、じまの兄さん、いつからそこに…」
先程まで自分と彼女が店の中で話題にしていた真島吾朗その人がそこに立っているのに、彼が良く入り浸っているバッティングセンターが近い事を思い出す。
派手なジャケットから覗く見慣れた筈の鮮やかな刺青が、妙に禍々しく見えるのは何故だろうか。
「せやなぁ〜。あの子がそこの店から出て来て、その後から桐生チャンまで出て来て、なんや楽しそうに『また来ますね』とか言っとった辺りからかな〜」
「つまり、最初から最後まで見ていた、と」
最早言い逃れもきかない状況であると悟った桐生の背を冷たい汗が滑り落ちて行く。
「あの子なぁ…チャンちゅうて、最近のワシのお気に入りやねん」
「ええ、存じております…」
思わず妙な口調になった桐生の肩に、真島の腕がどしりと乗せられる。
「久し振りにじっくり話しせんとアカンようやなぁ、桐生チャン」
久し振りにってアンタと俺は最近賽の河原で会ったばかりじゃないか、と言う言葉を飲み込んで、桐生は大人しく頷いた。
伝説の元極道、桐生一馬の夜はまだまだ長い…。



この後桐生ちゃんは、彼女が真島の兄さんを嫌いじゃないって事を話して事なきを得るんだと思います。
20130123