ぎゅう、と胸を締め付けられて息ができない。
こんな思いを知るくらいならいっそ海になど出なければ良かったのに。
けれどもう手遅れなんだと、分かってはいた。



胸に潜む恋心に、必死で見えない振りをした




惚れた腫れたなんて自分には一番関係の無い話じゃないかと思った。
オヤジの回りにいるナース達はそれでもどの隊長がいいだとか、どこの隊のなんとかって男もなかなかだとか、そういう話が大好きで(そうは言っても彼女達はオヤジ一筋なのだけど)、それはとても女として普通の事だろうとは思ったが。
そもそも自分は誰かと恋に落ちる為に海へ飛び出したわけじゃない。誰かを好きになるためにこの船に乗ったわけじゃない。
海賊なんて、好きに戦い好きに食べて好きに眠り好きに奪う。自由に気儘に生きる、その為に海へ出た者の集まりだ。
女なんて言う面倒くさいものは丘に置き去り、時折『港の女』と遊べれば十分。
自分だって戦うためだけに海に出たはずじゃなかったのか。
なのに気づけば胸に燻るこの炎は。
馬鹿じゃあないのか。と何度も自問した。自分も相手も海賊だ。
ジリ、と胸の奥が焦げ付く。
「隊長、大丈夫ですか?顔色が…変ですよ」
眉間に皺を寄せてみたり、かと思えば此方まで胸が締め付けられる程の切ない表情で海の先を見つめてみたりしていた彼女に、副隊長のアリダが声をかけた。
顔色が悪い、と言うよりは表情がおかしいと言った方が正しいのだろうか。思わず変、と言ってしまったが。
「帰りたい、けど、帰りたくないんですね」
アリダを含む自分の部下達にはすっかりこの心の内は知れてしまっていた。
このアリダを含む数人の部下は元々オヤジの下でナースだった者達で、色恋沙汰には目聡いしそういう話が大好きだ。
白ひげの名を背負って隊長などするようになってから抱くようになったこの気持ちを、彼女達はあっさりと見抜いた。
二ヶ月の任務を終えて船に戻る、迎えの外輪船の甲板で今にも逃げ出したくなる心と、は必死で戦っていた。
本船に戻れば間違いなく彼がいる。オヤジの右腕とも言えるその男は、自分のように船を空ける事などまず無い。
会いたくないはずがない。もう二ヶ月も彼の顔を見ていないのだ。
けれど、上手く笑えるだろうか。何事も無いかのように振舞えるだろうか。
この想いを気付かせないようにいられるだろうか。
どれも自信が無くて逃げ出したくなる。
いつからこんなに女々しくなった、と胸の内で己を叱咤した。



二ヶ月ぶりに戻ってきた彼女は、また一段と綺麗になったと、マルコは素直にそう思った。
0番隊の隊長として、部下にたくさんの女を置くようになった事で色々な知識を吹き込まれているのだろう。
そもそもそのうちの何人かは元々オヤジのナースだった者達が混じっていて、女としての経験値が段違いだ。
そんな彼女達に、今のは磨けば光る宝石の原石にしか見えないのだろう。
昔の彼女なら絶対身につけなかったような洋服に身を包むようになったし、綺麗な装飾品で身を飾るようにもなった。
姉さん、と呼ぶナース達にやられたのだと、爪を染めていた事もあった。
身体の線も滑らかに、立派になってきた。
16の時から見知っている彼女は確実に少女から女へと変貌している。
その彼女が、その身体が知らぬ間に男を知ってしまうのではないかと、マルコは密かに心配している。
彼女達0番隊の任務内容がどういったものであるか詳しくは知らないが、船を下りて陸で活動する事も多い彼女達の世界は間違いなく己より広い。
年頃である彼女が陸の男に興味を抱いたとしてもなんの不思議も無かった。
「海賊らしく奪っちまえばいいのにさ」
イゾウがそう笑ったが、そう簡単なもんではないとマルコは思っている。
彼女も己も自由を求めて海に出たのだ。
その想いで彼女を縛ってしまいたくはない。
あの日、初めて目にした彼女はとても気持ち良さそうに空を駆けていた。その姿を今でも覚えている。
真紅に輝く美しい体躯は己の行く手を阻むものなどなにもないと、全身で奔放さに喜びを示していた。
そんな彼女をどうして己で縛りつける事ができようか。
「そんな難しい事考えなくていいと思うけどねェ」
実際のところはそうかもしれない、と思いながらもマルコは今の状況から踏み出す事ができない。
「まあとりあえず行ってやんなよ。探してる、お前の事」
イゾウが示す先を見れば、オヤジへの報告から解放されたが甲板に上がってきていた。



「よう、久し振りだなァ」
一番聞きたかった声。でも会いたくなかった。その男の声がして、は小さく深呼吸をしてから振り返る。
「久し振り」
たったそれだけの短い返事をなんとか返す。
「元気かよい?」
くしゃり、と頭を撫でるその手に、俯いて唇を噛むのを知られないようにした。
「少しだけ、疲れたかも」
苦笑を浮かべたに、マルコは気遣わしげな視線を送る。
「少し寝ろ。きっと夜はお前達が帰ってきた凱旋祝いだとか言って大騒ぎになるよい」
「うん。でもその前にお茶だけ付き合ってよ、マルコ」
ささやかなその誘いを断る彼ではないから、彼女はそんな彼にこっそりと甘えてみる。
「眠れなくなるから紅茶にしておけよい」
「もちろん。でも甘めのミルクティーにしてね」
そう、笑顔を向ければ。
「全く。はいつまでたってもお子様だな」
同じような笑顔が返ってくる。
(今はまだ、お子様でいい)
心に燻る炎を持て余して、今はまだその地位に甘んじておく事にした。



(なんだアイツら!さっさとくっついちまえばいいのに!!)
(て言うか誰かキューピッド役やってあげればいいんじゃないの?)
(えーやだ面倒くせえ)
(てか面白いからもう少しあのままでいてもらいてぇ!)
(いけ!そこで押し倒せマルコ!)
先程から食堂の入り口でたむろしているのはサッチやイゾウを含む各隊の隊長達。
二人が食堂へ向かったのを確認したサッチが他の隊長達を呼び集めて無理矢理食堂からクルー達を追いやったのだ。
「なんか静かね、マルコ。誰も食堂に来ないのって珍しくない?」
マルコに淹れてもらったミルクティーに口をつけたがガランとした食堂に首を傾げた。
食事時でなくてもやれ喉が渇いただの小腹が減っただのと、食堂に人が絶えた事などないはずなのに。
「…ああ、そうだな」
変なところで鈍感は彼女は気付いていなかったが、マルコはちゃんと気付いていた。
うっすらと開かれた食堂のドアから中の様子を伺っている隊長達の姿と、そんな不思議な光景に食堂に入りたくても入れずにいるクルー達の事を。
(まあいい虫除けになるから構わねぇよい)
もう少しだけ、サッチが用意してくれたこの二人きりの時間を楽しむ事にする。



20100729