全ての物語はここから始まる。



真昼の夢・一




「今日も賑やかな事ね」
その声に振り返れば、苦笑を浮かべた恋人の姿があった。
「お元気なのは・・・良い事だ」
素直に騒々しいと言ってしまう事などできずにそう応えた周泰を、はらしいと笑う。
「あまり私の兵達を苛めないで頂きたいものだ」
そう言う視線の先には彼女の部下である兵達を相手に鍛錬をしている孫策の姿があった。
何が気に入ったのか近頃、呉の主である孫策は鍛錬場に姿を見せては、や彼女の部下達と手合わせをするのを習慣としていた。
「そうだ、昨日の話は・・・」
己の存在を気付かれれば、間違い無く手合わせを要求してくるであろう孫策を知って、は声を潜める。
もう少しだけ、彼と話をしていたい。その気持ちを知る周泰は微か、表情を綻ばせて応える。
恋人達特有の甘い雰囲気を纏わせて話をしていたが、不意に身を翻した。
孫策に跳ね飛ばされた若い兵の行く先に硬い石畳があるのに気付き、身体を投げ出す。
!」
孫策と周泰、二人の声が重なった時には、その身体は兵と石畳の間にあった。
「悪ぃ!つい熱くなっちまった!」
若い兵を立たせる孫策に応える余裕も無く、周泰は彼女を抱き起こす。
その頭が力を失って揺れるのを見て、周泰はもちろん、孫策も全身の血が引いていくのを感じた。



医務室に運び込まれた彼女は、すっかり気を失ってしまっていた。
咄嗟の事で上手く体勢を作れなかった事と、孫策の力が予想以上に強かった事もあって、その身にかかった負荷は思っていたよりも大きかったようだった。
「頭を・・・強く打っておられるようです」
医師の言葉に、孫策と周泰は言葉を失った。
「それで、は大丈夫なのか!?」
尋ねる孫策に、医師は頷いて見せる。
「命に別状はありません。・・・ですが・・・」
医師が言葉を濁したその時、彼女が意識を取り戻して目を開いた。
・・・」
彼女がゆっくりと身を起こすのに気付いた周泰が声をかける。だが、返ってきた答えは誰も想像していない言葉だった。
「ここは・・・どこです?」
・・・?」
唖然とした表情で己を見やる周泰と孫策に戸惑う彼女の姿に、医師が悲しげに首を振った。
「失礼ですが、貴方がたは・・・?」
「俺が分からないのか!?」
身を乗り出す孫策には戸惑い、その勢いに微かに怯えを見せる。
「孫策様・・・」
己をなだめる周泰を指して、孫策は重ねて問うた。
「こいつの事も・・・分からないのか?」
尋ねられて、は記憶の底を探るようにじっと周泰を見つめた。
返ってくる返答を聞くのが怖くて、だが予想に反する答えが欲しくて、周泰は期待と不安の入り混じった表情で彼女を見つめる。
交わす視線の末に、悲しげに目を伏せたに、周泰は苦い表情を浮かべた。
「申し訳ありません・・・分からないのです・・・。私が・・・知る方なのですね・・・」
打ち付けた頭が痛むのか、こめかみの辺りを押さえるその姿を、孫策は呆然と見つめた。



「打ち所が悪かったのでしょう。としか、申し上げられません・・・」
別室にて医師の言葉を聞く孫策も周泰も、ただただ呆然とするのみだった。
兵士を助けて石畳に強か体と頭を打ちつけた彼女が記憶を失ってしまっているのは一目瞭然だった。
「本当に、すまねぇ!」
と頭を下げる孫策を、周泰は怒る気にはなれない。
故意で無い事はもちろんの事、兵士の身を気遣って身を投げ出したのも、彼女であればこそ。
誰が悪い訳では無い事は分かっていた。
それを分かっていながら、孫策はそれでも遣り切れない思いで一杯だった。
自分や、他の将達の事は良い。
だが、周泰とが恋仲にあり、二人が共に過ごして来た時間を知っている孫策にとって、当事者である彼女がその事を忘れてしまっているのは、いかに悔やんでも悔やみきれない。
「孫策様のせいではありません。・・・どうか、その様に謝らないでください」
「けどよぉ!」
それでも気がすまないと言った様子の孫策に周泰は告げる。
も・・・謝って頂きたいとは、思わないはずです」
そう言われてしまえば、孫策にはそれ以上言葉は無い。



医師と孫策を別室に残して、周泰は彼女の元へと戻った。
「どこか・・・痛むか?」
寝台の上に身を起こしている彼女の頬に触れるその手は優しい。
「少し・・・頭が」
記憶を失う程の衝撃を頭に受けたのだ。無理も無い。
「何もかも・・・思い出せないのです。私が・・・何故このようなところにいるのか・・・何故こうなっているのか・・・。貴方達の事すら・・・思い出せません」
の記憶から、己も含めた全ての事が抜け落ちてしまっているその事実は、周泰にとっても耐え難いものだった。
だが、周泰は元より諦めるつもりはない。全てを忘れてしまったと言うならば、もう一度作り上げればいいだけの事。
彼女がもう一度、その思いを自分に向けてくれるという確たる自信はなかったが、周泰は諦めるつもりは毛頭無かった。
「ここは、呉国。先程の方は主の孫策様だ。お前は・・・呉に古くから仕える有能な将だった」
この国の事と彼女自身の事を軽く説明してやると、彼女は驚いた表情を見せる。
「私が・・・将であったと・・・?」
「そうだ」
想像もしていなかった事実には暫く戸惑っていたが、事実は事実として受け入れる事にしたようだった。
戸惑いが消えたその表情は、記憶を失う前の彼女と何一つ変わるところは無く、周泰は少しだけ安堵する。
「それで・・・貴方は?」
「・・・俺は、周泰。周幼平だ」
名だけを告げるその言葉に、だが彼女は納得しなかった。
先程の孫策の様子と言い、今目の前にいる男の時折見せる辛そうな切なげな表情に、ただ名を名乗るだけの関係ではない事を持ち前の洞察力で見抜いていた。
「貴方は・・・私にとってそれだけの人ではないはずです。私は・・・貴方をなんと呼んでいたのですか」
少し戸惑った後、周泰はありのままを話す事にした。どうせ隠していても遅かれ早かれ他の者から伝わってしまうだろう。
「『周泰』と・・・だが、二人だけの時は、『幼平』と」
それだけで、聡明な彼女は己と彼の関係を悟り申し訳なさそうに俯いた。
「・・・大切な貴方の事を・・・私は忘れてしまったのですね」
「・・・お前を諦めるつもりは無い。だが、記憶に無い以前の事を・・・お前に強要するつもりも無い。・・・思い出せなくても、お前の気持ちがまた、俺に向かってくれるよう、努力をしよう」
その言葉に、は微かに顔を朱に染めた。
「・・・ずるい方です。その様に言われては・・・私は貴方を忘れた事を・・・後悔してしまいます。・・・ですが、お優しい方なのですね」
「お前にだけだ・・・」
ずるいと思う。その様に言われて、目を逸らす事ができようか。
だが、そのまっすぐで誠実な思いを寄せられて恥ずかしそうに微笑む彼女は変わらず美しく、周泰がその存在に再び心を奪われるのは容易い事であった。



20100621加筆修正