確たるものは何もないけれど。



真昼の夢・二




周囲の心配を余所に、は五日と待たずに床を出た。
打ち付けた頭に既に痛みは無く、記憶が失われた事を除けば至って健康な彼女が、何時までも床に居続ける筈も無かった。
彼女はまず、記憶を失う前に己が呉の将として受け持っていた仕事を確認し、そしてその殆どはそのまま彼女が続ける事になった。
は記憶を失っても知識は失っていなかった。
己が築き上げてきた人間関係や呉への功績の事、そういったものは失っていたが、日々の生活を送る上で必要な知識は、不思議と彼女に染み付いていた。
だが、流石に部隊の指揮からは一時離れざるを得なかった。
部下に会ったり、鍛錬をするだけで逐一人に『あれは誰だ?』と尋ねればならない始末で、肝心の鍛錬が進まないのである。
呉の武将や兵士、文官や女官達ともう一度新しい関係を築き上げるまでは、彼女は周泰の副将として扱われる事になった。
孫策がそれを勧め、もそれを願い、周泰は承諾した。
もちろん、周泰に拒む理由など何一つとして無かった。
今の彼女にとって、周泰は元恋人である事を除いても心安らげる存在であったようだ。
そして表には出さなかったが、周泰は彼女が己を頼ってくれた事に安堵感を覚えていた。
恋人同士であった事を殊更に強調した事は無かったが、その事実に身構えられては堪らなかった。
彼女は互いの過去について特に気にした様子も無く、気兼ねの無い態度を周泰に向け、その上で気を許してくれた事は素直に嬉しかった。



一月もすればは呉軍に溶け込み、いつもと変わらぬ日々を送り始めていた。ただ前と違うのは、彼女の昔の記憶が無いだけ。
古参の兵や将達の間では、あまりの彼女の変わらなさについ昔の事を話題にして、が微か困ったように断りを入れる事が数回あった。
それ程までに彼女は昔と何も変わっていないように見えたが、それも道理で、記憶を失ってもその根本は何一つとして変わっていないのだ。
誰に対しても真摯な態度で臨み、一瞥の印象に捕らわれる事の無い、それが彼女の姿勢だった。
それは等しく周泰にも向けられ、その上で尚、二人の距離が確実に近づいているのが周囲にも分かった。
驚く程短い期間で二人の間には以前のような甘い空気が流れるようになっていた。
もちろんそれを周囲に見せ付ける事も、誰に告げる事も無かったが、二人を良く知る仲間達には、はっきりとそれが分かった。
特に喜んだ呉の主孫策は、そんな二人に数日の暇を与えた。
性格上、二人は始めそれを拒んだが、孫策の強い押しに結局は二人揃っての休暇を有難く頂戴する事となった。
「たまには・・・遠出でもするか・・・?」
呉主の前から退出した周泰がに声をかける。
二人揃って暇を与えられたと言うのに、二人が別行動、もしくはずっと館に篭っている事は許されそうになかった。
見つかり次第孫策に詰め寄られるのは目に見えている。
ならばいっそ、久方振りの二人だけの時を楽しみたいと、周泰は考える。
「周泰が・・・構わないのであれば・・・」
照れ臭そうに応える表情の中に嬉しさを覗かせて応える彼女のその表情を久方振りに目にした周泰は、孫策の気遣いに密やかに感謝した。
そうして二人は、呉国内を見回りがてら、数日の休暇を楽しむ事となった。



が記憶を失って以降、初めて二人だけで過ごす時である。



20100621加筆修正