失う事など、考えられなかった。



真昼の夢・三




『運命』と言うものがあるとしてもそれを信じているわけでは無かったが、彼女が他の誰かのものになる事など考えられなかった。
だが周泰は、此度の二人きりの休暇の間に確たる言葉が欲しかった。
記憶を失う前のも記憶を失った後のも、周泰は変わらず愛しく思っていたし、彼女も、自身を含む全ての状況を解した上で周泰に前と同じように愛情を抱いてくれていると、そう感じてはいたが、実のところ二人は確たる言葉を交わした事はまだ無かったのである。
焦っている訳では無かったが、それでも・・・。
「不安・・・か・・・」
己の胸に蟠るその感情を、周泰はそうとしか呼べなかった。
過去の事に捕われては欲しくない。だがもう一度、己を見て欲しい。
上手く、伝えられているのだろうか。
「もどかしい・・・な」
失う事など考えられないその存在を思い、周泰は一人呟いた。



今の彼女には初めてとなる夏口の地。
は周泰に無理を言って一人でそこを見て回っていた。
孫呉に対する蜀漢、曹魏に近いこの地を、まだ何の情報も無いうちに己の目で確かめておきたかったのだ。
まずは己で知る事を望む姿勢を周泰は彼女らしいと笑み、出来れば早く戻って欲しい、と心地好い強要をした。
周泰の事を思うと、胸が締め付けられるような感覚に陥る己を、彼女は自覚していた。
彼の事を――彼との事を忘れてしまっても、本能では知っているのだ。
彼しかいないのだと。
静かに、だが真摯に愛を伝えてくる彼を、何故忘れてしまったのかと、悔やむ程に。
「・・・愛しい、な・・・」
以前の自分もこのような想いを周泰に抱いていたのであれば、変わらぬ愛情を向けてくれた彼をどんなに愛しく想っても足りぬ、と。
「そろそろ戻らねば・・・心配をかけてしまうな」
馬首をめぐらせたその背に、不意に声が掛けられたのはその時だった。
「どなた様でありましょうか」
「記憶を失ってしまわれたと言うのは・・・本当だったのですな」
名を呼ばれ振り返るの記憶に目の前の男の事はやはり無く、だがそれでも名を呼んだ以上は己の事を知っている者なのだろうと、少々申し訳ない気持ちになりながらも尋ねざるを得なかった。
「貴方様のおっしゃる通り、私は記憶を失い貴方様の事を覚えてはおりませぬ・・・。申し訳ありませんが、今一度お名前を頂けますでしょうか」
「某は文遠。張遼文遠と申します」
礼を尽くしたその問いに、同じ様に礼を持って応える男を不審には感じなかった。
「どこかで・・・お会いした事があるのですね」
「反董卓連合の中にて孫堅殿に付き従っていた貴女の姿を垣間見た事があります。最もその頃の貴方はまだお若く少年のようで、この様な麗しい女性だと知ったのは後の事ですが」
微笑んだ張遼は、その時己が董卓に従う呂布の軍に身を置いていた事も、亡き呂布に代わり今は曹操に仕えている事も、口にはしなかった。
だが、今のには彼に関する知識は何一つ無く、物腰柔らかな張遼の言葉と態度に、警戒心を抱く事もしなかった。
「この様な所でお会いできるとは思ってもいませんでしたな。視察の最中ですかな?」
「はい。休暇を頂いたのですが只休むのは性に合わないもので・・・。視察を兼ねて各地で羽を伸ばしているところです」
「成程、そう言う事でありましたか。真面目であられますな、殿は。・・・やはり、我が方へ欲しい方だ」
不意に目を細めた張遼に、反射的に身構えたのは日々の訓練の賜物であった。日頃から培われた武将としての本能がそうさせた。
だがの動きよりも早く張遼は腕を伸ばし、彼女の馬の手綱をその手に収めていた。
「貴女が記憶を失われたと聞いて参りました。よもやこの様な所でお目にかかれるとは・・・某も意外ではありましたが、好都合ですな」
「離して下さい・・・張遼殿?」
不穏な言葉に、彼女ははっきりと不安の色を見せる。
「お放しする訳には参りません。殿、率直に申し上げますが、我が殿に仕えては頂けませぬか」
主の動揺を感じ取って足並みを崩しかけた彼女の馬を宥めながら、張遼が言う。
「貴方の・・・主・・・?」
「そうです。我が主、曹操殿にお仕えする気はありませんか、殿。記憶を失われた貴女は何も知らぬ赤子同然。貴女のその生を今度は魏にて紡いで欲しいと、我が殿は考えておられる」
白紙となったその人生を、魏にてやり直せ、と。
「某としても、貴女が我が方へ来て頂ける事を望んでいるのですがな」
更に腕を伸ばして、張遼はその身体を捕らえてしまう。強く引き寄せられて身を乗り出してしまったは、不安定な馬上に於いて嫌が応にも張遼にしがみ付かなければならなかった。
「虎牢関に在った貴女はまだ少年のようでありながら美しく、凛々しくあられた。あの時から某は、貴女を忘れる事は出来なかったのです」
耳元で囁かれる言葉に、だがは周泰の姿を想っていた。
誰に求められようとも、己が求めるのは周泰その人でしかないのだと、改めて思い知る。
「嫌です・・・!離して下さい!」
抗ったが意外にもあっさりと解放されたのに気付き、怪訝そうに張遼を見やると彼は彼女の後方に目線を投げていた。
つられて背後を振り返ると、疾駆してくる黒い影。
「邪魔が入ったようですな・・・。今日のところは引き下がりますが殿、某も殿も貴女の事を諦めてはおりませんぞ」
そう告げると、張遼は素早く馬を返して駆けて行った。今ここで騒ぎを起こすつもりは無かったのであろう。
・・・!」
あまりの事に身体の力を失って落馬しかけた彼女を、走り込んで来た周泰が引き上げ、己の馬上に抱き上げる。
「周泰・・・」
抱かれる腕が周泰のものであるだけで、は安堵してその胸に縋り付いた。
「無事か・・・?」
彼女が頷くのを確認して、周泰はの馬の手綱を取ると、そのまま走り出す。
一刻も早く、この場から離れてしまいたいとでも言うように。



宿に戻っても、周泰は何があったかを問い質すような事はしなかった。
ここのところ大きな戦が無かったとは言え、敵将に関する知識を伝えていなかったのはこちらの不手際だし、がそれに対して警戒心を抱けなかったのも無理は無い。
何より、少なからず動揺を見せている彼女を追い詰めたくは無かった。
だが、彼女のこの細腰を抱く張遼の腕を見逃しはしなかった。
だからこそ。今だからこそ、彼女から確たる言葉が欲しい。
「少しは・・・落ち着いたか?」
「ああ・・・心配をかけてすまなかった。これからは周泰にもついてきてもらう事にするよ」
そう苦笑したの頬に触れ、じっと彼女を見つめる。
何も変わらない。記憶を失う前と何一つ。
ただただ、愛しい想いだけがある。
「周泰・・・?」
見つめられる事に恥じらいを感じて彼女が身じろぐのを許さず、周泰はを抱き寄せる。
「誰にも・・・渡しはしない・・・。お前を愛している・・・。・・・お前の、答えが欲しい・・・」
それは、記憶を失ってから始めての、周泰からの瞭とした言葉だった。
何も覚えていない彼女に、関係を強要したくは無かった。
だが、他の誰かに奪われる事も耐えられなかった。
他の誰かに奪われるかも知れないと言う事実を、今日はっきりと知った。
だから。
彼女が他の誰かのものになってしまわないように。
「・・・私も・・・愛して、いる」
その言葉に、周泰は彼女を抱く腕に思わず力を込めた。
「その言葉が欲しかった・・・」
「お前を忘れてしまうなんて・・・私も惜しい事をしたものだな」
こんなにも強く、ひたむきに愛を告げる男の事を忘れてしまうなんて。
の腕がそっと己の背に回されるのを感じ、周泰はその唇に己のそれを重ねていった。



20100621加筆修正