どうしようもなく制御できない感情を
持て余したあたしは
どうしようもなく涙が止まらなかった



彼女が泣いた日




久方ぶりの陸とあれば、浮かれるのも仕方が無い事。
ナース達は新しい服を!と色めき立ったし、コック達は新鮮な食材を!と冷蔵庫と倉庫を改めはじめた。
もちろんクルー達も飯、酒、女、と久し振りの俗世にテンションは高まるばかり。
そんな中で、冷めていたのはもちろんである。
新しい服には心惹かれるものがあるが、ナース達のように着飾っても仕方が無いと思っているし、食べ物に関してはそんなに執着は無い。
もちろん一夜だけの遊び相手など微塵も必要ない。
度々任務で外に出る事の多かった彼女には陸がそんなに良いものだとも思えなかった。
そんなわけで盛り上がるクルー達の中、彼女だけはいつもと変わらぬ表情で、海を見つめていたのである。



海軍の手も遠く、久々にゆっくり出来そうな上陸だった。船を港に着け碇を下ろす。
は行かねェのか?」
サッチの問いに首を横に振る。
「あたしはいい。またすぐに出る事になるだろうし。暫くはここにいたい」
家である船に今はいたい。と言った彼女を、誰もそれ以上無理に誘い出そうとはしなかった。
いってらっしゃい、と送り出す彼女の横を通り過ぎるサッチを、そしてその後に続くマルコの背中を、じっと見つめていた。
行かないでよ、なんて言えなかったし、言える立場でもなかった。
マルコとはただの仲間、それ以上でもそれ以下でもなかった。
けれど、彼が陸に上がって女でも抱いているのかと思うと、なんとも言えない感情に胸をわし掴みにされた。
長い船上の生活は自由もあるが不自由もある。
滅多に解消する事のできない欲求の一つを我慢しろとは言わなかったが、それを仕方の無い事と割り切れる程、彼女は年を重ねてはいなかった。
ちゃぷん、と船縁に跳ね返った波の音に、街の方を見る。
夜の帳が下りた街には、いくつもの明かりがまだ灯っている。酒場で大騒ぎする仲間達の声が、聞こえたような気がした。
ぎし、と心が軋む。
は知らぬうちに己の胸、心臓の辺りを強く掴んでいた。
短くも綺麗に整えられた爪が柔らかい肌に食い込みじわりと血が滲むも、その力が弱くなる気配はない。
(いやだ)
彼が何を思って陸に上がって行ったのか。今頃良い気分で酒を飲んでいるのだろうか。
(いやだ)
そしてその後は誰か綺麗な女と一夜を過ごしてくるのだろうか。
(そんなの、いやだ)
彼だって男だ。彼を男として見てしまっている自分が、それを一番良く分かっている。長い禁欲の生活できっと彼だって陸に上がる時を待ちわびていただろう。
それでも、自分に彼の行動を制限する権利など微塵も無いのが、堪らなかった。
行かないでよ。他の女なんて抱いてこないでよ。傍にいてよ。
そう、言えない自分はなんて惨めな。
「う、ああああああ!」
おもむろに叫び声をあげ走り出し、次の瞬間彼女は甲板を蹴って飛んだ。
「は?え?ちょ!隊長!!!」
マストの上の見張り台で見張りをしていた5番隊のクルーが海へと飛び込んで行った彼女を見ていて、慌てて緊急用の笛を吹いた。
「どうした?」
「敵襲か!?」
船の警護に残っていた5番隊のクルー達が顔を出す。
「た、隊長が…隊長が身投げした!!」
そうとしか見えなかったので、彼はそう叫びながら彼女が飛び込んだばかりの水面を指差した。
「は?」
「なん、だって?」
ざわつく甲板の上で、5番隊隊長のビスタが海を覗き込むと確かにそこは水面が揺れていて泡が浮いてきている。
!」
不意に彼女が悪魔の実の能力者である事を思い出したビスタが、咄嗟に飛び込み、次いで他のクルー達も飛び込んだ。



「何だって飛び込んだりしたんだ!自分が泳げないの分かってるだろう!」
「すいません…」
「死にたいのかっ!?」
「…ごめんなさい」
いつもはに甘いビスタが珍しく声を荒げていた。
それもこれも彼女を心配するが故だ。
衝動的に飛び込んでしまったとは言え、彼を含めクルー達に多大な迷惑と心配をかけてしまった事に、彼女自身も申し訳ないと思っていたので謝罪の言葉しか出てこない。
幸い、ビスタ達の救助が迅速だった為大事には至らなかったが、ビスタ以下クルー達の肝は十二分に冷えた。
「ビスタ、もういい。オヤジがを呼んでいる。落ち着いたら来いってさ」
居残りで船にいたイゾウが、尚も彼女を叱り付けようとするビスタを止めた。
「行って、きます」
服ごと濡れた身体をタオルで包んだだけのは、まだ弱冠ふらつく足元で船長の部屋へ向かった。
「海に飛び込んだらしいな」
彼女が部屋に入ってきたのを見ると、白ひげは大きな笑みを浮かべて言った。
いつもなら数人は傍にいるはずのナース達の姿はない。
「海賊稼業に嫌気がさして死にたくなったか?」
「そんな事、絶対ない!」
オヤジの子になった事を後悔した事など、一度も無い。それだけは絶対で、はぶんぶんと首を横に振る。
そんな彼女を見て、白ひげはグララララと特徴のある笑い声を上げた。
「こっちへ来い」
呼び寄せた彼女の身体をひょいと抱き上げて己の膝に乗せる。
「何か堪らねェ事があるって顔だな」
何もかもを知っているかのような白ひげの声に、唇を噛んだ。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。
「胸を掻き毟る程か」
胸元に残る爪の痕を、目聡く見つけられる。
「欲しい物があるなら奪い取れ。それがおれ達海賊だ」
「力ずくで、奪ったって、意味なんか」
震える声で言う。
「ガキだと思っていたのが一丁前に色気づきやがったか」
彼女の欲しがっているものがなんであるか、白ひげにはすぐにバレてしまう。
堪らなく欲しいもの。胸を掻き毟りたくなるほど焦がれるもの。力ずくでは奪えないもの。
「ごめんなさい、オヤジ」
こんな自分が白ひげの元で隊長なんて名乗っているのが酷く情けなくて恥ずかしくて、は深く項垂れた。
「何に対して謝ってんのか分かんねェな」
謝罪の言葉を撥ね付ける事で彼女は悪くないのだと、言外に示す。
「お前のその気持ちは悪いもんじゃねえ。焦らねェでちゃんと守っておけ」
その言葉に、抑えていた涙が一気に溢れてくる。
海賊だろうと白ひげ海賊団の隊長だろうと恋をする事は悪い事ではないのだと。
オヤジの言葉はいつだって重みがあって、すっと心の中に落ちてくる。
ぽろぽろと涙が零れて止まらない。泣きたくなんて、無いのに。
「泣きたきゃ泣け。我慢なんかすんじゃねェよアホンダラ」
そう、オヤジに優しく背中を叩かれて。彼女は珍しく大声を上げて泣いた。
「そんなに急いで女になるこたァねえ」
優しく背を撫でてくれるその優しい手に甘えた。
父である彼に縋り付き、涙と声が枯れるまで泣いていた。



「で、おれの可愛い娘に惚れられてるのはどこのどいつだ?」
「そっ、それはオヤジでも言えない…!」
「…マルコは手強いぞ。落とすんならしっかりやれよ!」
「オヤジィ!!」



20100801