不如帰が哭く

猫が微睡む昼下がり

「こっちからそとにでればうまや。あっちのろうかのおくはあるじさまのおへやですよ。きいていますか?岩融!」
ぴょこぴょこと跳ねるようにして忙しなくあちらこちらを指し示す今剣を見て、身軽なところは元の主にそっくりだな、などと考えていた岩融は、不意にこちらを振り返った彼に笑いかけることで意を示した。
「聞いているぞ、今剣よ」
岩融の返事に満足気に頷いて見せた今剣は、ほんの僅か考え込むような素振りを見せてからあっけらかんと言い放つ。
「これでだいたいのところはおしえたはずです。ぼくもうあきたのであそびにいってきますね!」
そう言って人気の無い廊下を、やはり跳ねるようにして何処かへと駆けて行く後ろ姿を見送って岩融はやれやれと頭を掻く。何よりもまず、と面識のある懐かしい顔に合わせてくれた主の心遣いは有難いと思うが、そのまま本丸の案内を今剣に任せたのは人選を間違えたと言わざるを得ない。 現に今剣は本当に必要最低限の案内だけを済ませ、飽きた事を理由にさっさと姿をくらましてしまったのだから。
とは言え刀剣男士として人の容を以てして呼び出された以上、今後もここで生活して行くのだろうしそのうちに覚えるだろうと、岩融はさして問題視もしていない。
しかして一人取り残されてしまった彼はそのままここでぼんやりしている訳にもいかず、もと来た道を記憶を頼りに戻り始める。案内されているうちに分かった事だが、岩融が想像していたよりもこの本丸は広く、そして今は主力である第一部隊を除く二つの部隊が遠征に出ている事もあって屋敷内は閑散としている。 迷って取り返しがつかなくなる前に誰かに会えれば良いのだが、と思いながら歩いていると幸いな事に見覚えのある広間にたどり着く事が出来た。 ひょいと中を覗いてみれば、そこには出陣の命を待つ太郎太刀、次郎太刀、燭台切光忠の三名がなんとも呑気に茶など啜っている。
「おっ!アンタが噂の新入りだね?」
岩融の姿を見つけた次郎太刀が上げた声に、残る二人も首を巡らせ視線を投げて来る。どうやら岩融誕生の瞬間に近侍として立ち会っていた太郎太刀が丁度、彼の事を話題にしていたようだった。
「君が噂の薙刀か。主と一緒ではないのかい?」
主が誕生したばかりの刀剣男士をほったらかしにしているなんて珍しいと首を傾げる光忠に、岩融は苦笑いを浮かべる。
「いやなに、案内役の今剣が飽いただけの事。ところでその主の居場所を知らぬか?」
今剣の姿は既に無く、所在無さ気にしている岩融の姿を見て大体の事を把握したらしい光忠が小さく笑って肩を竦めた。
「多分畑の方にいると思うよ。案内しよう」
「畑…?」
「土の具合がどうとかって言っていたからね」
後に続きながら畑の事など一言も聞いていないとぼやく岩融に、光忠は小さく笑い声を上げる。今剣は畑仕事があまり好きそうでは無かったからそこを案内する必要性を感じなかったのだろう。なんとも彼らしい事だ。
「主は百姓の出なのか?」
「とんでもない。君が想像している以上の大物だよ、あの人は」
彼が言うには、我らが主は内番で畑仕事をさせる刀剣達を選んでいるにも関わらず、自身も畑に出向き野良仕事に精を出している事が多々あるらしい。何も審神者自らとは思うが、主は戦時に於いて糧食が尽きる事を酷く懸念しているようで、兵站線を整えると言う事に於いては一切の手抜きを許さないのだと言う。
「そこまでしなくても万屋に行けばいつでも大概の物は手に入るとは言ったんだけどね。性分なんだってさ。そういう時代の人だから」
「そういう時代?」
「主は僕達よりもずっと昔の時代の人なんだ。当然、耕作の技術も知識も今ほど発達していなかった」
付喪神である自分達よりも昔の時代の人間とは一体どういう事なのか。審神者とはそのような者なのかと首を傾げたが、光忠がさして気にも留めていないように話すので、岩融はそれ以上その事について追及する機会を得なかった。
それはさておき、ある程度の糧食を自分達で賄えるのであればそれに越した事はない、と言う主は暇が出来れば自ら畑の様子を見に行っているとの事だった。それは裏を返せばいつでも戦が出来る、と言う事だ。 女性の身でありながら、戦事を厭わない主のようだ。
案内されて畑に出向いてみれば、作物に水を撒いている小夜左文字と収穫を迎えた作物を選定して籠に放り込んでいく宗左左文字の横で、主は畑にしゃがみ込み何やら熱心に土を弄繰り回していた。
「…主よ」
誰が用意したものか作務衣まで着込んでいるのだから、随分と本気で畑仕事に臨んでいるようだと意外に思いながら声をかけると、彼女は振り返りもせずに応える。
「岩融か。今剣は案内役に飽いたか」
「あらかた案内はしてもらったぞ。後は追々覚えていくしかあるまい」
声だけで自分だと分かったのだろうか、と内心驚きながらもそう応えると、土いじりをやめた主が立ち上がり岩融を見据えた。
「なに、今から岩融には近侍を務めてもらう。嫌でも直ぐに覚えるだろうよ」
「俺が、近侍?」
「何じゃ。不服かえ?」
「いや…そういう訳ではないが、俺の様な新参者が近侍など務まるのかと思ってな」
僅かに戸惑う岩融に、作務衣の土埃を叩き落としながら主が笑う。
「些末な事じゃ。妾に侍っていればそれも直ぐに覚える。何、その様に気難しく考える事も無い。気楽にあたるが良いぞ」
そう言って畑当番の左文字兄弟の方へと首を巡らせる。
「宗左、小夜、後は頼んだぞ」
畑仕事に関してはあらかた満足したようで、主は二人に後の世話を任せると岩融についてくるようにと告げ、屋敷へと向かう。
「衣を改めてくるゆえ、暫しそこで待っておれ」
審神者の部屋の前まで連れて来られたものの襖を閉められた岩融は暫く所在なさ気に立ち尽くしていたが、やがてその場にどかりと腰を降ろした。
前の主であった武蔵坊弁慶とは何もかもが違う、新しい主。当然ながら線は細く声は涼やかで、己よりも昔の時を生きた人間とは言え古臭さを感じさせるどころか、何やら香の良い香りすら立ち上るような妙齢の女。されど女の身でありながら戦事を厭ってはいないらしい。
なるほど確かに只者ではないのだろうと岩融は思う。立ち居振る舞いの端々にもそれが顕れているのがわかる。
まさか己がこうして人の姿形を得て自ら戦に出向く事になるとは思ってもいなかったが、これはこれで楽しい事になりそうだ、と。そんな思考に耽っていると着替えを済ませた主がいつの間にやら己の顔を覗き込んでいたので岩融は大いに驚いた。
「考え事かの?岩融」
「これは驚いた。この俺が人の気配に気付かないとは」
「妾は戦場育ちゆえな。気配を消すくらいの事はできる。考え事に耽っていたとは言えぬしにも気取られぬとは、妾もまだまだ衰えてはおらぬな」
ころころと楽しそうに笑う彼女の、白魚のような指先が岩融の一筋跳ね上がった前髪を梳く。その瞬間に心臓が跳ねたのを、人の身を得たばかりの岩融はまだ自覚していなかった。
香の香りが強くなった、と認識すると同時に主の顔が近くまで寄せられている事に気付く。
「岩融…岩融よ」
名を呼ばわる彼女の声が優しく、そしてどこか甘さすら含んでいるように思え、岩融は思わず生唾を飲み込んだ。
「妾はぬしのように大きく強い武士(もののふ)が大好きじゃ。ゆえに、妾はぬしを気に入っておる」
金色の瞳がさも嬉しそうに弧を描いている。紅を引いた唇が柔らかく笑んでいて、妙に艶やかだった。
「ぬしの働きに期待しておるぞ、岩融よ」
にんまりと笑みを浮かべた主に、うむ。と尤もらしく頷いて見せた岩融の様子を、どこから迷い込んできたものか、一匹の猫が眺めていた。



岩融。太郎太刀。江雪左文字。次郎太刀。燭台切光忠。蛍丸。
この日から、この六名が新たに編成された第一部隊となり、その後長らく、彼女の主力部隊となる。

逆に考えるんだ。名前変換なんてなくてもいいさって考えるんだ…。
20171027