決して多くを望みはしない
ただお前の、そのささやかな願いを叶える為に



さりとて君を、離しはしない




同級生がそうするように、学校帰りに寄り道をしてみたり、といった事をはしない。
かと言って部活動に勤しんでいる訳でも無い彼女が放課後どのように過ごしているかと言えば、そそくさと学校を後にし、商店街で食材を買い込み帰宅するだけである。
時折仲の良い友人が誘いをくれたりもするのだがそれに応えた事は終ぞ無い。
早く帰宅する事を命じられている訳でも無く、彼女がそうしたいからだ。
数少ない友人からの誘いはとても魅力的だし、こんな自分を誘ってくれるのは有難い事ではあるのだけれど。
それでもは自分の立場を不遇だと思った事は一度も無い。
親の顔を知らず、施設で育ったとしても。
その身を預かる男が、どんな生業の人間だとしても。
だから彼女は、今日も急ぎ足で帰路に着く。
買い込んだ食材をテーブルの上に置くと、自分にと与えられた部屋に行き、制服を脱いできちんとハンガーにかけて吊るしておく。
それから部屋着に着替えた彼女は、可愛らしいエプロンに身を包み、食材を冷蔵庫にしまい込んでから部屋の掃除に取り掛かる。
一通り掃除が済んでしまうと次は洗濯物を取り込みにかかり、それを片付けてからようやく一息ついてお茶を啜る。
まるで家政婦のように働く姿に、共に暮らしている男がそんな事をしなくても良い、と言った事があるのだが、他でもない彼女自身がそうしたいのだと強く願えば、男はそれ以上は彼女の行動を咎めはしなかった。
男の役に立ちたいなどと、烏滸がましい事を言うつもりは無かった。
ただ、身寄りの無かった彼女を引き取り学校にまで通わせてくれている。そんな男に少しでも恩返しがしたかったのだ。
出来る限り、男の手を煩わせる事のないように。けれど、不規則な生活を送る男が不自由を感じない程度には家の中の事を整えておく。
それが、彼女が出来る精一杯の恩返しなのだ。
恩を売りたくて彼女を引き取ったわけではない。と男は言ったが、それでも彼女の行為を無碍にするような真似はせず好きなようにさせてくれるから、も男の好意に甘えている。
お茶を飲みながら暫くテレビを見ていた彼女は、ふと時計に目をやってからやおら立ち上がり、夕食の準備に取り掛かった。
この家に来てから一人で夕食を済ます事が少なくは無かったが、それを寂しいと思った事は無い。
男の不規則な生活の理由は十分理解しているつもりだし、何より、施設で暮らしていた時よりも充実した気持ちを抱いている。
長い間施設で暮らしていた彼女にとって、大勢いる孤児達の一人では無く、ただ唯一として自分の身を案じてくれている人がいると言う事が、何よりの幸せなのだ。
これ以上望む事など無いとすら思っているは黙々と夕飯作りに勤しみ、やがて出来上がった料理を並べて一人の夕飯を済ませてしまうと、食器を片付けて自室へと篭った。



思っていたよりも宿題をやっつけるのに時間を食ってしまい、気付けばもう夜もだいぶ更けてきていた。
急いで風呂に入ってしまわなければ、と部屋を出ると同時に玄関の方で物音がして、男が帰ってきたのだと知る。
夕飯時に帰ってこなければ、彼女が寝ている間にいつの間にか帰って来ている事の多い男が珍しいものだと思いながら、せっかくなのだから顔を見たいと玄関へと出向く。
だが、玄関先まで出向いた彼女は男の姿に驚いて思わず足を止め、その場に立ち尽くした。
「なんや、。まだ起きとったんか」
意外だと言わんばかりの声を上げた男は、いつもきっちりと整えている髪を乱れさせ、珍しくスーツのジャケットも脱いだまま。
良く見ればあちこちに傷を作って、右の頬を腫れさせている。
極めつけに、脇腹を押さえるその手が赤く塗れているのを見つけてしまった彼女はついに、声を上げた。
「渡瀬さん、どうしたんですか!?」
「大した事やない。あっち行っとれ」
突き放すような言葉にくしゃりと顔を歪めた彼女が奥へと姿を走り去って行くのを見た渡瀬が、小さな溜息をついて漸く家の中へと上がる。
リビングのソファにどっかりと腰を降ろして大きく息を吐くと、部屋に引っ込んだものとばかり思っていた彼女がタオルを片手に走り寄ってきた。
「見せて下さい」
血に塗れた渡瀬の手をどかし、そこにタオルを押し当てながら言う彼女の肩は小さく震えていて、動揺を隠せていない。
「ええねん、ほっとけや」
「駄目です。ちゃんと手当てしないと・・・!」
怖いと思っている癖に怪我の具合を探ろうとしてくる彼女に渡瀬は諌めるような声を上げたが、それでも頑として譲ろうとしないに再び溜息を漏らす。
当然の事だが、一緒に暮らしているとは言えそう言う仲ではない彼女に、渡瀬が自分の体を見せた事など一度も無い。
傷を見ると言う事は渡瀬がシャツを脱がなければならないと言う事で、そうなればその肌を鮮やかに彩るそれを彼女の目に晒す事になる。
自分とは違って堅気の人間である彼女を気遣う渡瀬の思いを知ってか知らずか、早く、と急かされ渡瀬は諦めたようにシャツのボタンを外し始めた。
渡瀬の墨は背中はもちろん、肩から胸にかけてまでを大きく覆うもので、ほんのいくつかボタンを外しただけですぐに露わになってしまう。
だが彼女は怪我の方に気を取られているのか、これと言って刺青に関して反応を見せるでもなかったので、渡瀬は一息にシャツを脱ぎ捨てた。
脇のあたりが血に染まったシャツをテーブルに投げ捨ててしまうと、再び傷口にタオルが押し当てられる。
「痛いですか・・・?」
荒事とは無縁の世界で生きている彼女にとって、明らかに刃物で出来た傷を目にする事など殆どないだろう。
既に血は止まっていたが、生々しい傷を目にした彼女の声は震えていて、その目には僅かに涙すら浮かべているように見受けられる。
「こんなん掠り傷や。お前が心配する程の事やない」
怪我をしているのは自分だと言うのに労わるような声をかけた渡瀬に、は少しばかりほっとしたように頷く。
タオルを渡瀬の手に預けて再びどこへかと小走りで駆けて行った彼女が戻ってくるとその手には救急箱が抱えられていて、この家にそんなものがあったのかと、渡瀬は自分の家であるにも関わらず感心したように目を見はった。
「沁みたらごめんなさい」
などと言って傷口の消毒を始めた彼女に、今更自分が消毒如きで呻くとでも思っているのかと可笑しくなったが、笑うとまだ傷口に響くので渡瀬はなんとか軽く肩を揺らすに留めた。
手際よく傷口にガーゼを当て包帯を取り出した彼女に、そこまでしなくても、と口を出すと、いつに無く強い口調で「きちんと手当てしないと駄目です!」と言われてしまい、まるで怒られた子供のように首を竦めたのは渡瀬の方。
腹に包帯を巻かれたところで渡瀬が再びソファに身を沈めると、再び彼女はどこかへと引っ込んで行った。
「せわしないのう・・・」
傷だらけの渡瀬の姿に動揺していた割には忙しく動き回るものだと、どこか感心したような言葉を漏らしたが、舎弟達と違う年若い女がこうして自分の事を心配してくれると言うのは、悪いものではない。
いくらか不謹慎な思いを抱く渡瀬を余所に、三度彼の元に戻ってきたはその隣に腰を落ち着けると、恐る恐るといった風に新しいタオルを渡瀬の頬へと押し当てて来た。
ひんやりとした感覚に、彼女が氷嚢を作って来たのだと知る。
「どうしたんですか?こんな・・・」
タオルに包まれた氷嚢を支えながら、こんな満身創痍な渡瀬の姿を初めて目にした彼女が尋ねて来る。
「ちょっと喧嘩しただけや。まぁ、相手が刃物振り回したんは予想外やったけどなぁ」
眉を顰めて心配を露わにする彼女を安心させるように軽い口調で言った渡瀬は、だが次の瞬間、今にも泣き出しそうなに気付いて思わず手を伸ばしてその頬に触れた。
がそないな顔する事やあらへんがな」
宥めるように極力優しい声をかけた渡瀬だったが、予想に反して彼女は深く俯いてしまい、その表情を伺いしる事は出来ない。
「渡瀬さんがいなくなったら私・・・どうすればいいんですか?」
十数年間、天涯孤独の身で生きてきた彼女にしては随分と弱気な言葉だが、再び独りになる事を恐れるのは誰かと共に生活する事の喜びを知ってしまったからか。
とは言え、渡瀬は明日をも知れぬ世界に身を置く男。彼女がまた独りになってしまう可能性も無い訳ではない。
その事を考えるならば矢張り彼女を手元に置いたのは間違いだったかと思う。
しかし、だからと言って彼女を施設に戻すのかと問われれば、その選択肢は渡瀬の頭には無い。
がそうであるように、渡瀬も彼女がいる生活が既に当たり前になってしまっている。
「施設に戻るのが嫌だとか、そう言う事じゃないんです。ただ・・・私の世界に色をくれた渡瀬さんが、いなくなるなんて、」
頬に添えられた手に己の手を重ね、縋るように僅かに力を込める。
「私、嫌です」
言葉にする事で一層実感が沸いたのか、伏せた瞳から涙が一つ、零れて行った。
・・・」
「私に、居場所をくれたのは渡瀬さんなんです」
遠慮がちに、だが強く男の無事を願う少女が堪らなく愛しくて、渡瀬は彼女の頬を包み込んだ手でその涙を拭い、そして彼女を強く抱き寄せる。
渡瀬の腿の上に乗り上げるような体勢に、驚きと恥ずかしさから体を強張らせた彼女が氷嚢を取り落し、ガシャリと音を立ててそれがソファに転がったが渡瀬は構いもしない。
宥めるように、強く抱きこんだ彼女の背中を軽く叩いてやると、おずおずとその太い首に彼女の細腕が絡みついた。
「ワシはな、喧嘩がしたくて極道になったんや。どこで死んでもおかしない、勝手な生き方や。せやけどお前を手元に置いておきたい思うんもワシの勝手や」
引き寄せた彼女の耳元で言い聞かせるように語る渡瀬の言葉に、は静かに耳を傾ける。
「せやけどなぁ・・・家に帰ってがおると落ち着くんや。お前の顔が見とうなんねや」
今更手放す事など出来ないとでも言うように、背中に回った太い腕に力が篭るのを感じながらは何度も渡瀬の言葉に頷いた。
「お前を泣かせないっちゅう約束はでけへん・・・せやけど、ワシはお前を離す気もあらへん」
そう言った渡瀬が腕の力を緩め、彼女の顔が見えるようにと距離を取る。
、学校卒業したらお前をワシの女にしたる。一生ワシの傍におれ」
そうして彼女と視線を合わせながら告げられた言葉に、は目を見開いて驚きを露わにした。
「私で、いいんですか?」
意外すぎるその言葉に聞き返す彼女に、渡瀬は口元を歪め笑みを浮かべて見せる。
と、次の瞬間伸びて来た渡瀬の手に頬を撫でられたかと思うと、一息に距離を詰めてきた彼がその唇に己の唇を重ね合わせていた。
「好きでもない女にこないな事せえへん」
まだ経験の少ないであろう彼女を気遣うようなやんわりとした口付けのあとで、渡瀬はそう言ってもう一度彼女を抱き寄せる。
「・・・私も、好きです。渡瀬さんが・・・世界で、一番」
顔を赤くした彼女はそれでも大人しく渡瀬の腕の中に抱き込まれ、そして囁くような声で言ったのを確かに聞いて、渡瀬は満足そうに笑みを浮かべた。
「だから、どこにも行かないで」
約束は出来ないとわかっていても彼の無事を祈る彼女の思いはただただ愛しく、渡瀬は出来る限りはその願いに添うようにありたいと、彼女の額にもう一度唇を寄せるのだった。



20130220