例えばそれは怒った時のマルコだとか。
例えばそれは嵐の夜に空を支配する煌きだとか。
『じゃじゃ馬』にも怖いものはあるのだ。



It is scary.




嵐が来る、と旅鳥が教えてくれた。
船首に佇んで先方を睨みつけるように視線を投げていれば遠目にだが黒雲が確認できて、確かに嵐がくるのだろうと確信した。
願う事で嵐の方向が逸れてくれるわけでもないが、その黒雲をじっと睨みつけていると不意に声が掛けられる。
「そんな怖い顔してどうした。可愛い顔が台無しじゃねェか」
「ティーチ…」
振り返ればそこにはチェリーパイを頬張りながらこちらへと歩み寄ってくる男の姿があった。その名を口にしては微かに身震いをする。
何故か、彼女はこの男が苦手だった。
欲しい物があると言いながらもその欲を滅多に見せる事は無く、マルコやビスタ達と同じように長年この船に乗っているはずなのに隊長と言う立場には微塵も興味を示さず、ただの一クルーに甘んじている。
何より、心よりオヤジを愛しているこの船のクルー達がその事を語る時に見せるような笑みをこの男が浮かべているのを、は見た事がない。
考えすぎだと言われてしまえばそうなのかもしれない。その程度だが、どうしてもはこの男に得体の知れない気味悪さを感じる事があって、苦手なのだ。
「別に、大した事じゃないから」
そう言ってティーチに向けていた視線を再び空へと向ける。
「何か考え事か?お年頃だもんな、は」
彼女の素っ気無さの理由を若さ故の反抗期と勝手に判断したティーチは笑いながら去って行く。
直後に遠くの暗雲からごろごろと音がして、その瞬間は大きく肩を揺らす。
幸いにも甲板には人が少なく、また船首の人気のないところに佇んでいた彼女の様子を見ていた者もいなかったが、彼女が雷を怖がっているのは明らかだった。
「どうしよう…」
一人で気儘に空を駆けていた頃は、嵐が来るのが分かればすぐさま進路を変えていたものだから、こうやって嵐を前に進退窮まる事は無かった。
だが白ひげ海賊団の一員としてこの船に身を置くようになった以上、他の者に雷を恐れて逃げ出す様を見せるわけにもいかず。
それは若者特有のつまらないプライドだったのかも知れないが、兎に角今までのように飛んで逃げ出す事は出来なかったのだ。
そうして結局彼女が泣きついた先はビスタだった。
彼女には甘いビスタならば彼女が雷を恐れる事を知ってもそれを他の誰かに悪戯に広めるような事はしないと思ったし、きっと嵐が去るまで傍にいてくれると思ったのだ。
扉を叩いて姿を見せたビスタに意を決して雷が怖い事を告げると、彼はその立派な髭を扱きながら暫く考えるような素振りを見せた後に言った。
「すまないがおれはこれから用事で部屋を空けなきゃならん」
まさかの拒否には明らかにショックを受けていたが、用事があると言うのであれば無理は言えない。
仕方が無いと肩を落とす彼女に、ビスタは密かに笑みを浮かべ。
「マルコなら、今夜は部屋にいると言っていたぞ」
そう教えてやると気落ちしていた肩が明らかにぴくりと跳ね上がった。
「む、無理!マルコのところなんて、無理!」
色々な意味でそれだけは出来ないと首を振る彼女を、だがビスタは笑いながら彼の部屋の方へと押しやった。
「早く行かないと大きな雷が落ちるかもしれないな」
ダメ押しとばかりに意地の悪い言葉を掛けて、ビスタは無情にも扉を閉めてしまった。
薄暗い廊下に取り残されたは暫く悩んでいたが、再び遠くで雷鳴が響くのが聞こえ、慌ててマルコの部屋へと走る。
もう四の五の言っていられなかった。本当に彼女は雷が苦手なのだ。
微かに震える手でその扉を叩けば、返事と共に扉が開かれる。
予想外の訪問者にマルコは微かに驚いたような表情を見せたが、彼女がいつもと違って縮こまっているのを見て首を傾げた。
「どうしたんだよい?」
尋ねられては、少しだけ躊躇った後に恥ずかしげな顔をして。
「か…」
「か?」
「雷が、怖いの。嵐が行くまで、傍にいて欲しいんだけど…」
その言葉にマルコは複雑な表情を浮かべた。
『じゃじゃ馬』と呼ばれるような彼女が雷など怖いとは思ってもいなかったが、それで自分を頼って来てくれたのは少しだけ嬉しくもある。
そして躊躇いながらそれを告げた彼女の身体が、睫が震える様はどこか扇情的にも見えて。
思わず吹き出してしまいそうになるのと、掻き立てられる庇護欲と、そしてほんの僅かに擽られる男としての欲。全てを綯い交ぜにしたような表情を、それでも気恥ずかしさに俯いていたが見る事がなかったのが幸いだった。
「…構わねェよい。入りな」
暫しの沈黙の後に入室を許可されて、彼女は明らかにほっとした表情でその身をマルコの部屋へと滑り込ませた。
「おれはもう少し書類を書いちまうからこれでも被ってろい」
そう言ったマルコが毛布を投げて寄越してきたので、有難くそれに包まるとベッドの隅に身を置く。
先程まで遠くで聞こえていた筈の雷の音が少しずつ大きくなっていて、確かに嵐が近付いているのだと分かる。
船室にまで響くようになってきた雷鳴に、は身体に巻きつけた毛布を更に強く握り締めた。
静かな部屋にはマルコが書類にペンを走らせる音と、雷の音が良く聞こえる。
何か話でもして気を紛らわせたいとは思うのだが、これ以上彼の邪魔はできなくて、ただただは毛布の中で身を縮めるだけだ。
「ッ!!」
丸い窓から入り込んだ雷光。辺りが一瞬明るくなるのを目の当たりにしてしまった彼女が小さく息を飲むのが分かり、マルコは苦笑しながらの方を振り返った。
「お前、本当に雷が嫌いなんだねい」
「…だって…!」
言い返そうとした矢先に雷鳴が聞こえてきて、威勢の良い口は直ぐに閉ざされてしまい。
「大体お前、自分が雷使うくせによい…」
本当に、意外な彼女の一面を見たと、マルコは思う。
「だからこそよ。自分で制御できないから怖いのよ」
彼女の言い分も一理あるとは思うが、それにしても随分と可愛らしい事だ。
「まあ、気が済むまでここに居ろよい」
お前の頼みなら構わないと言う言葉を飲み込んでマルコは彼女にそう告げ、再び机上の書類へと目をやった。



少し手間取った書類が片付いた頃には既に夜も更けていて、だが相変わらず雨は激しく雷も鳴り響いている。
時折船が大きく揺れるので海もだいぶ荒れているのだろう。
それにしてはやけに静かだとベッドの方を見やれば、毛布にくるまったまま彼女は眠っていた。
随分と無防備な事だとは思ったが、それだけ安心もしているのだろう。
それが、近くに人が、マルコがいるからだと、そう言う理由であればいいと思いながらマルコはベッドへと身を乗り上げる。
こんな無防備にされては、男として微塵も意識されていないのではないかと思うのだが、だからと言って彼女が他の男の部屋に行くのも我慢ならない。
彼女をそうやって独占する権利もないのに勝手な事だと自覚しながらも、マルコにはまだ、そうするだけの決心がつかない。
小さな溜息は、の眠りを妨げる事はなかった。



目が覚めれば既に夜は明けていて、嵐があった事など微塵も感じさせないようなすっきりとした青空が窓の向こうに見えている。
眠っているうちに嵐の海域は抜けてしまったようだ。
それにしても、とは寝起きのぼんやりとした頭で思う。
やけに背中が温かい。それに、腰に纏わり付いている逞しい腕…とそこではっきりと意識が覚醒し、それと同時に激しく心臓が鳴り始める。
確かに昨夜は嵐の雷を恐れてビスタに部屋に置いて欲しいと頼んだのを断られ、仕方なくマルコに泣き付いた。そして彼の部屋で毛布に包まって縮こまっていたのだが。
いつの間に眠ってしまったのかは分からなかったが、今の状況はどう言う事か。
後ろからその身を抱き込むようにマルコが寄り添って眠っている事に気付き、は身じろぎ一つ出来なくなってしまう。
雷が怖いのだと泣き付いたのは確かで、迂闊にも人様の部屋で眠ってしまったのは彼女の方なのだが、何もここまでしなくても、と。
好いた男の腕に抱かれるのが嫌な女などいないだろう。けれど、彼女の想いはまだ己の胸の内に秘めたままであって、間違ってもマルコとはそう言う関係にはない筈なのだ。
泣き付いてきた彼女を思っての事なのか、それともマルコ自身が人肌恋しくてこうしているのか、どちらなのか分からなくて、はシーツをきつく握り締めた。
マルコがどういうつもりであるのかは分からないが、身体を反転させてその胸に縋り付いてしまいたくなるのを堪えて、シーツを握る手に力を込める。
「…ッ…」
腰に回された腕はゴツゴツとしているが力強く。背中に張り付く胸は温かく、広い。時折頭の後ろで聞こえる寝息にすら。
どうしようも無く、男を感じてしまって。
「…マルコ」
好きで好きで仕方がないのだと、改めて思う。どこまでも、はまってしまうその感覚がどこか怖くもあり。
押さえきれない熱を孕んだ小さな声で呼んだその名が届いたのだろうか。腰に回されていた腕がぴくりと動き、背後のマルコが身じろいだ。

寝起きの少し掠れた声が耳元に落とされる。それだけで顔に、身体に熱が篭る。
「良く眠れたかよい?」
「う、うん…」
赤くなっているであろう顔を見られぬようにと身を縮こませるの腕を、軽く叩いたマルコが小さく笑ったのが分かった。
「ちゃんと眠れたのなら、良かったよい」
ギシリとベッドを軋ませて身体を起こしたマルコの熱が、離れていく腕が惜しくては瞳を閉じる。
だが、安堵にも似た吐息を一つ吐き出した彼女の心拍数はゆっくりと平常へと戻って行った。
ベッドを降りたマルコに続いて身体を起こし、寝癖のついた髪を撫で付ける。
「あ、あたし、部屋に戻って仕度してくる…ね」
これ以上この部屋にいると、溜め込んでいる想いを吐き出してしまいそうで、そそくさと自分の部屋へと向かう彼女がふと足を止め、マルコを振り返る。
「マルコ、あの…ありがとう」
一言だけ残して部屋へと駆け込むその可愛らしい様に苦笑するマルコが、昨夜書き上げた書類をオヤジのところへ持って行こうと部屋を出ると、廊下の壁に背を預けて意味ありげな笑みを浮かべているビスタの姿があった。
「一晩共にいた割りには何も無かったようだな。せっかく人がお膳立てしてやったと言うのに」
その言葉に、マルコは苦々しげな表情を浮かべる。ビスタが彼女に何を言ったのかは知らないが、昨夜が自分の部屋に来たのはこの男の差し金だったのかと思うと面白くない。
「余計なお世話だよい」
フンと鼻を鳴らすマルコに、ビスタは顎を撫でて笑みを浮かべる。
「早くモノにしてしまえ。嵐の夜にの傍にいてやりたいと思う男は少なくないぞ」
サッチやイゾウのように発破をかけてくるビスタに「うるせェよい」と言い捨て、素早く廊下の向こうへと姿を消したマルコに、一人残されたビスタは苦笑するだけ。



20111110