白の朝




さくさくと、足元で鳴る音が心地よい。
踏みしめる雪のその音があまりにも心地よかったのでどうしても外に出てみたくなった。
馬を城門に向けて進めていくと、城門を守る兵士に見つかってしまう。
「や、これは様。どちらへ行かれるのですか」
生真面目に声を張り上げる兵士に、彼女は人差し指を口の前に持っていってから、声を小さくして言った。
「遠乗りに行きたいのです」
「こんな朝早くから…ですか?」
驚きと戸惑いを含んだその言葉に小さく笑って言う。
「朝早くだから、です。日が昇ってからでは軍議が始まってしまいます」
呂軍の代表的な武将である彼女が軍議を欠席する訳には行かない。だからこそ早朝のこの時間を選んだのだ。
「納得したらそこを通していただけますか?軍議に遅れるわけには参りませんので」
「しかし様、お供の者は…」
なおも食い下がる兵士に苦笑しながら根気強く諭すように言う。
「大丈夫です。そんなに遠くには参りません」
言葉尻は穏やかでも引く気はないのだと悟った兵士は、くれぐれもお気をつけ下さい。と言い含め、彼女の為に門を開けた。
門を抜けてしまえば、見渡す限りの白の世界。
まだ朝日が昇りきっていないためか光を跳ね返さない雪は、銀色に光ることはせずただ、白く世界を覆っていた。
まだ、誰も踏んでいない所の方が多く、思わず嬉しくなって馬に鞭を入れる。
ここの所戦いにばかり明け暮れていたは、久し振りの雪に子供の様にはしゃいだ。
そして気付けば予定していたよりも城を離れてしまっていた。
もともと遠くまでは行かないと言う約束を破るつもりも無いので、そろそろ、と馬の脚を緩めさせる。
やがては、やはり自分の足で雪を踏みしめたくなって馬を降りた。
「ここで暫く待っていておくれ」
愛馬の首を優しく撫でて手近な木の枝に手綱を結ぶと、真っ白な雪を踏みしめて歩き出す。
「静かだな…」
まだ朝早い為かそれとも雪が全ての音を吸収してしまっているのか、辺りは静まり返っていて時が止まったかのような錯覚すら抱かせる。
そうして彼女は一時、戦の事を忘れてこの静かな世界に浸っていた。



唐突に、馬の蹄の音が聞こえて静寂が破られた。
おもむろに現世に引き戻され、辺りを警戒しながら腰に下げた剣に手を伸ばす。
だが、遠くから駆けて来るそれが赤い馬であるのを視認すると、はやや安心したかの様に肩の力を抜いた。
この世で赤い馬と言えば赤兎馬しかいない。
そして、赤兎馬の乗り手と言えば己の主である呂布以外にはなかった。
!」
呂布は彼女の側まで賭けて来て赤兎の足を止めるとその名を呼ばわる。
「おはようございます、呂布様」
主に対して臣下の礼を取る彼女に、呂布は開口一番声を荒げた。
「おはようございますではない!こんな時間にこんな所で何をしている!!」
彼が怒鳴る事を予測していたは小さく苦笑いを浮かべるだけで、臆することなくしれっと口を開く。
「はい。雪が積もっておりましたのがあまりにも美しかったのでこのように遠乗りに出て参りました。朝の軍議にはまだ時間は早いと思いますが?」
一瞬呆気に取られたような表情をしていた呂布だったが、眉をしかめると更に怒鳴り声を上げた。
「そのような事を言っているのではない!護衛も付けずに城外へ出るとは一体どういうつもりかと言っているのだ!自分の立場を忘れたわけではあるまい!?」
呂布は自分の事を心配してくれているのだと知っている。だからついつい笑みが零れてしまうのだが、それはまた呂布を怒らせる結果にしかならない。
「何を笑っている!!貴様、将たる者の自覚が足らないのではないか!?」
「はい。申し訳ありません殿」
そう頭を下げると、呂布は黙り込んでしまった。
「字で呼べ」
馬上から不機嫌そうな声を投げかける。
彼女が自分の事を『殿』と呼ぶのを、呂布は厭っていた。それを知っていて彼女は今、敢えてそう呼んだのだ。
結果として、呂布の怒りを上手く逸らせてしまった。はそれと知っていてやっているのだが、呂布がそれに気付く事は無い。
「殿と呼ぶな」
不機嫌な声のまま赤兎馬を降りて目の前に降り立つ呂布に柔らかい笑みを向け、言う。
「はい。奉先様」と。
と、呂布はその両の腕を伸ばしておもむろにの細見をその腕の中へと抱き込んだ。
「ほ、ほ、奉先様!?」
「俺はそのような変な名前ではない」
「それよりお離し下さい奉先様」
身体を動かして抵抗してみるが呂布の力に敵うはずもなく、その腕の中に閉じ込められたまま。
不意に耳元に囁かれた。その声があまりにも真剣だったので、は思わず言葉を失う。
「心配をさせるな。お前までどこかに行くことは許さん」
それは、自害したあの人の事を言っているのだろうか……。まだ自分達が董卓の部下だった頃、呂布が心底入れ込んでいた憂いの美女貂蝉の事を…。
貂蝉は本当に美しい女性だった。同じ女の目から見ても、美しいとしか言えない様な人だった。
董卓と呂布に上手く取り入り、呂布に義父であった董卓を斬らせた。そしてその後に貂蝉は自室で毒を飲んで果てていた。
今となっては董卓を斬らせる為に利用されたのだと言う事は疑いようも無い事実だったが、それでも呂布は彼女に想いを寄せていた。
だが、その想いは届くことはなく、彼女は帰らぬ人となった。
呂布の義父が丁原であった頃から呂布を主として仰ぎ、密かに彼に淡い恋心を抱いていたとしては複雑な心境だったが、呂布の落胆振りは見るに耐えなかった。
「私は、どこにも参りません」
その大きな背に精一杯腕を回し、子供をあやす様に優しく叩いて穏やかに言葉を返す。
「私の在るべきところは、奉先様、貴方様の側以外には無いのです」
呂布のを抱き締める腕に更に力がこもった。
「俺を……俺を愛してくれ…」
小さな声で…喉の奥から搾り出すような声で告げられた言葉は、それでも彼女の耳に届いた。
「奉先様?」
驚いて顔を上げると、呂布は泣き出しそうな顔をしていた。初めて見る、主の気弱な表情に目を瞠る。
乱世とは言え、自分自身裏切りを繰り返してきた呂布は、人一倍裏切りを恐れているのではないだろうか。
不器用な呂布が、それでも精一杯愛した女は死んだ。誰よりも一人を恐れているのではないだろうか…。
愛しい人。と胸の内で呟きはその背に回した腕にそっと力を込める。
「奉先様、私は貴方様にお仕えした頃より貴方様をお慕い申し上げておりました。そしてこれからもです」
「俺を愛してくれ……側にいてくれ……」
呂布の悲痛なまでの願いを叶えようと思った。
「愛しております奉先様。私はずっと、貴方様のお側に在ります」
白の世界で、誓った。
死が訪れる時まで、この人の側に在り続けると…。



20100622加筆修正