乱世に身を立て、名を成そうとするは男の性。
なれば私は。
女の私はこの乱世に…。



君、死にたまふ事なかれ




鏃が肉に喰い込む嫌な音がした。
その音は非常に近くで聞こえ、一瞬遅れてやってきた痛みに、それが自分の肉体に突き立ったものだと知る。
最早痛覚までもが麻痺してしまいそうになるほど、の身体は限界を訴えている。
此度の戦自体は勝ち戦ではあったものの、この戦での彼女の役割は囮であった。
戦が始まると同時に無謀とも取れる程の凄まじい猛攻を仕掛け、適度に敵を引き付けるとやがて壊滅を装って撤退する。
敵に罠だと悟られないように、時には本気の反撃に出、そして出来うる限り犠牲を少なくして退却する。
今回の戦で一番危険で、そして困難な役割だった。
だが、彼女の見事な指揮に敵軍はずるずると城から引き摺り出され、手薄になった城を本陣が攻め落とした。
城を落とすまでは良かったがその後、戻る城を失った敵軍は一番危惧していた行動に出た。
目の前の陣を突破して九死に一生を得ようとしたのだ。
即ち、捨て身の覚悟での軍を破る事。
手負いの獣程怖いものは無い。
死に物狂いで血路を切り開こうとする敵軍に、彼女の軍はじりじりと押され始めていた。
落とした城からはすぐに本陣の後詰めが出陣してはいるが、既に戦の初めから突撃と退却を幾度となく繰り返している彼女の軍は動きが鈍って来ている。
「だが…逃すわけにはゆかぬ…」
は肩口に突き立った矢もそのままに、再び愛刀を握り直した。



周泰は出来うる限りの速さで馬を走らせた。
本当はもっと速度を上げたかったが、それでは馬が潰れてしまう。己自身も単機で突出してしまう事になる。
そうなれば、彼女を無事に助け出す事など出来ない。
それは分かってはいるが、抑えきれない不安に駆られる。
戦が始まるといつもそうだった。
恋人であるは前線に立つ事が多かった。
逆に孫権の護衛を勤める周泰は本陣にいて孫権の傍にいる事が多かった。
最後の砦ではあるが滅多には危険には晒されない場所だ。
女である彼女が前線に居て、己が後方にいる事に周泰は納得している訳ではなかった。
だが、互いに一己の将である限り己の役目を果たすのが義務である事は分かっているし、だからといって彼女も乱世から身を引くような人間でも無い。
だからこそ、そんな彼女に周泰は惚れもしたのだが、それとこれとは話が別だ。
幾度彼女が無事に戻ろうとも、彼女が何度『大丈夫だ』と微笑もうとも、不安で仕方が無い。
戦が決まると、二人は出陣までの短い時を出来るだけ一緒に過ごすようにしている。
いつ果てる身とも知れぬが故の、乱世の恋人達の切ない性か。
そうして周泰は長い口付けを与えた後に決まってこう言い、先に出陣して行く彼女を見送るのだ。

「死ぬな、…。決して…」

周泰は誰に聞かせるでもなく、むしろ己に言い聞かせるようにそう呟いていた。
「斥候…。本隊の位置を探れ…」
戦場は無我夢中で血路を開こうとする敵軍と、囮役として進退を繰り返したの軍、両軍の兵士の屍で溢れかえっていた。
互いに疲れきって、それでも両者とも一歩も引かないその戦いは既に乱戦状態になっており、両軍の本隊を探す事も容易ではなかった。
素早く斥候を放ちながら、周泰自身も馬を走らせ続ける。



乱戦状態となった戦場では、軍を纏め敵軍を押し返す事も、退却する事も容易ではなくなって来ていた。
は数の少なくなった親衛隊と共に、戦場を駆け回っては散り散りになった自軍をまとめて指示を与えて行く。
その一方で、敵将の姿を捜し求めた。
この混戦の中で決着を着けるには、もはや敵将を討ち取るしかないのだ。
それも一刻も早く。
本陣から後詰めが来ているとは言え、これ以上犠牲を増やすわけにもいかない。また、後詰めが到着するまで保つかどうかも怪しかった。
「貴方達は出来うる限りの兵を纏めて陣形を保ちなさい」
親衛隊に指示を与え、単騎戦場に身を躍らせた。
「ここにあるは孫呉のなるぞ!御大将はどこにおられるや!女の私に背を向けるを恥と心得るならば出でて勝負せよ!」
声を張り上げると、分かりきってはいたが四方から矢が飛んできた。
将と認めた敵の兵が矢を射掛けてくる。
疲弊しきった兵たちの弓は馬で駆ける彼女の身体に殆ど届く事は無かったが、何本かを切り払い、叩き落しながら戦場を駆ける。
何度目か声を張り上げた頃、己に向かって突進して来る騎馬を認めた。おそらくは敵の将であろう。
「女でありながら見事な陣を率いる者よ…!覚悟されい!」
戟を扱いて突進して来る敵将に立ち向かい、刀を構える。
「時代の流れを解せず孫呉に牙向く者よ、その愚かさ首だけになって悔やむがいい!」
繰り出された戟の刃先を刀の腹で受け流し、馬を寄せる。
互いの馬が触れ合う程の近距離で切り込んだ刃は、手首を返して引き戻した戟の柄に阻まれた。
馬を走らせたまま鍔迫り合い、互いに呼吸を計って離れる。
すぐさま馬を返して再び斬り合うも、高い金属音を発して互いの武器は弾かれる。
息を呑むような激しい攻防の中、つかず離れず戦う二人に、どちらの兵達も弓を射掛けられずにいた。
だが。
の馬に限界が訪れた。
ずっと走り通していた馬はついにその脚を折り、彼女の体が地面に投げ出される。
「覚悟されい!」
好機とばかりに敵将は戟を低く構えて迫る。
地面に投げ出されたは地を転がって体勢を立て直し、そして呟く。
「死ぬわけには行かない…。私はこの乱世にまだ果てる訳には行かぬ…」
下から切り上げる戟を紙一重でかわし、身を躍らせた。
跳ね上がる戟の柄を利用して飛び上がると、その刃を閃かせる。
一瞬の後に、敵将の首は胴から離れており、その乗馬は主を失い踏鞴を踏んで止まった。
自分達の将が討ち取られた事を悟ると、敵軍は壊滅状態に陥った。
武器を捨てて降参する者、後ろも顧みずに逃げ出す者達などで戦場は一時騒然とした。



敵軍に動揺が走ったのを、周泰も気付いていた。
斥候の報告により、の信頼する親衛隊が自軍をまとめている事は分かっていたが、彼女自身はそこにはいないようだった。
よもやあのが敵将と刺し違えているとは思えなかったが、それでも不安が拭い去れない周泰は更に馬を駆った。
周泰の率いてきた後詰めの軍が、孫呉の兵を収容し敵兵を捕縛したり追い散らしていく中、周泰は恋人の姿を探し求める。
暫く行くと、今にもずり落ちそうになっている首の無い屍を背に乗せたままの馬の姿があった。
その馬は所在無さ気に戦場をのろのろとうろついていたが、その屍が身に着けている鎧から、それは間違いなく敵将のものだろうと周泰は感じた。
となれば彼女がこの近くにいる可能性が高いと踏んだ周泰が首を巡らせると、果たしてそこには四肢を投げ出して横たわっている愛しい女の姿があった。
兜をつける事を嫌ったの、纏め上げた髪が乱れ、風に吹かれるがままになっているのと、肩口やその身体に突き立ったままの矢を見て、周泰は全身の血が凍りついたかと思った。
…っ!」
馬から降りるのすらもどかしく感じながら彼女の元に駆け寄り、その身体を抱き起こす。
その唇に顔を寄せると弱々しいながらも風を感じて、周泰は安堵の息をついた。
…!」
軽く揺さぶったり頬を叩いてやると、その瞳がうっすらと開き周泰の姿を捉えた。
「幼、平…」
「無事か…」
問いかけると、彼女は小さな微笑を残して答える。
「大丈夫…私は、死なない」
疲れきっているのか、それとも受けた傷が思ったよりも酷いのか、それだけ言うとは再び瞳を閉じた。
周泰はその身体を抱き上げ、投げ出されたままの彼女の愛刀と、斬り飛ばされたままの敵将の首級を回収すると、再び馬上の人となった。
その腕に大切な人を抱いて。



城まではそんなに遠くは無かったが、収容した怪我人の手当ての為に一晩そこに陣を張る事にした。
周泰の為に張られた幕舎にも、医師の一人が居た。
周泰の治療の為ではない。彼の幕舎に収容されたの治療の為だ。
幕舎に運び込まれる頃には、彼女は意識を取り戻していた。
「一度肉を切り開かなくてはなりませんな」
重い鎧では動きが制限される為に、彼女は好んで軽鎧で出陣していたのだが、今回はそれが祟って鏃が深くまで食い込んでいた。
医師は熱湯で消毒した小刀を用意する。
舌や口の中を噛み切ってしまわないようにの口に布が咥えられ、痛みに暴れるであろうその身体を押さえる為に周泰が彼女を抱き込んだ。
「耐えられませ、様」
医師は一言そう言うと、傷口に刃先を入れる。
抱き合うように身体を押さえられたの、周泰の背に回された腕に力がこもり、震える程に強く衣を掴んだ。
さすがに孫呉の将を勤めるだけあって、悲鳴こそ上げなかったものの、周泰の耳には彼女のくぐもった声が届いている。
計三箇所。肉を裂き鏃を取り出し、傷口を縫い合わせる。
その間周泰はずっとを抱き止めていた。まるでそうでもしていないと彼女がどこかへ行ってしまうとでも言うように。
彼女の治療に当たった医師は、周泰のその愛情に中てられ苦笑しながらも、縫い合わせた傷口に薬を塗布し、清潔な布を当て包帯を巻いてやる。
「それでは様、安静になされませ。周泰様、後は宜しくお願いしますよ」
あとは彼に任せておけばいいと判断し、医師は他の患者を見に、幕舎から立ち去った。
…」
手当てされたとは言え、血を流した傷口がすぐに治るわけではない。
じりじりと熱を持つ傷口を持て余す彼女を宥めるように口付けを与えた。
の身に必要以上の熱を与えないように、そしてともすれば己の内に篭りそうになる熱を抑えつけて。
痛みを紛らわせる為だけに、優しい口付けを。
やがて周泰に縋り付いていた腕の力が抜けていくのを感じ、周泰は彼女を抱いたまま寝台に身を横たえた。
「…何度も言ってきた事だが…」
戦場を離れる事は出来ないのかと、もう何度も口にした問いをまた投げかける。
身命を賭して孫呉に仕える事が将としての定め。それは分かってはいるが、今回ばかりは本当に周泰は気が気ではなかった。
一番危険で困難な囮役を引き受け、成功したものの思いも寄らない反撃をくらい、じりじりと陣が押されていると知った時のその気持ちは。
今度こそ失ってしまうのではないかと思い、そして実際戦場に倒れ伏す彼女の姿を見つけた時には失ってしまったのではないかと思った。
その、愛しい温もりを。
何よりも大切な存在を。
けれど彼女はいつもと同じように首を横に振る。
「ならば幼平、貴方も戦場を離れて欲しいと言ったら…離れてくれるのか?」
からの問いに対する周泰の答えも矢張り、否。
「だが…俺は、お前を失いたくはない」
「それは私も同じだよ、幼平」
優しく頬を撫でる手を重ね、は問う。
「幼平は、何故乱世に身を投じた?」
「それは…」
なんとも言葉にはし難い。
乱世に身を立てようと思った。いつまでも賊徒のままではいられないとも思った。孫策の人柄に触れ、孫家に忠誠を誓い、彼等は周泰の前身を知りながら、今の功績に篤く報いてくれる。それを裏切る訳にはいかない。
そういった事を端的に話してやると、彼女は小さく苦笑して周泰を見つめた。
「男は皆、そうだ」
少しむくれたような口調の恋人を怪訝そうに見やる。
「世の為、人の為。乱世に身を立て名を成す為に。…男はそれでいい。そうやって己の生きる場所と死に場所を求め、戦いに身を投じる」
漆黒の瞳に移る己の姿に、思わず誘われて唇を寄せると、の手がやんわりとそれを阻む。
「だがな、幼平。…乱世に生きる女は待つだけだ。死に行く男を見送り、無事に帰るのを祈るだけ。私はそんなのは嫌だ」
周泰の唇のその進行を阻んだ手を取り、甲に口付けて周泰は言う。
「俺は…死なない」
「分かってる、幼平。でも私は待っているだけなのは嫌なのだ。お前が戦場に出るのなら…お前が主の為、名を成す為に戦うのなら…」
の、強い瞳の輝きが周泰をまともに捕らえる。
周泰が焦がれて止まない、乱世に生きると決めた力強い女の瞳。
「私は…愛する者を守る為に戦うよ。…幼平、お前の為に」
立場が逆だ、と呟くと、彼女は笑った。
「いいんだ、それで。幼平は仲謀様を、この国を、民を守る。自分の事は二の次のお前の為に、私はお前を守る。だから、幼平が死なない限り、私も死なない」
互いに戦場を離れられる事など出来ないと知っている二人の、これがいつもの結論。
だから、周泰はその柔らかな唇に口付けて誓う。
「俺は…死なない。だから、お前も死ぬな、
「うん。私は死なない。だから、幼平も死なないで…」
熱くなりかけた体を抑えて唇を離し、もう休めと、その身を抱いてやる。



次の日の朝にはなんとか自分で身を起こせるようになったや、怪我の手当てを終えた兵士達を連れて周泰達は城へ凱旋した。
此度の戦で重要且つ危険な役目を果たした彼女には孫権からの恩賞が与えられた。
そしてまた、彼等は次の戦いに赴く。
乱世に身を投じる恋人達の、それは神聖なる儀式のように。
唇を重ね、生きる事を誓い。
誰の為でもなく互いの為に。
ただ、愛しい人の為だけに。
互いに、必ず生きると誓い合う、それはまるで婚儀のように。



「愛しいお前よ、決して死ぬな。私も死なぬ…お前が生きる限り」



20100622加筆修正