「愛しております」
そう囁けば優しい微笑みだけが返ってくる。
頷きの一つすらなかったが、それでも女は満足だった。
長い長い時の中で彼女はただ、男に向かって愛の言葉を捧げる事だけが全てだった。
なんの見返りも求めず、ただ『愛している』と告げ、浮かぶ笑みに満足して眠る。
そんな日々が永劫と続くのだと、思っていた。
既に俗世になど微塵の興味も持っていない。こうして愛を囁き続けてどれだけの時がたったのかすら、もう覚えてもいない。



決して交わる事のない




彼女が記憶している限りでは、初めて目にした彼はまだ若者であったと。
ルーキーと呼んでも差し支えない、だがその名は決して大きく表には出てこない。そんな世渡りをするような男だった。
気付けば、いつしか億越えの賞金首。そこで突然世界に名前を知らしめた。そうしてついにその男は『王下七武海』へ。
相変わらず歓迎もしていないと言うのに男は無断でズカズカと屋敷へ踏み入ってくる。
「相変わらず黴くせェところだぜ」
勝手に入って来て好き勝手に文句を吐く男に、女はその美しい顔に嫌悪の表情を惜しみなく浮かべてやった。
「フフフッ。そんな顔すんじゃねェよ、今日はめでてェ日だ。祝いの言葉の一つくれェくれたってバチはあたらねェぜ?」
めでたい事というのが七武海入りを指しているのだというのは解っていたが、彼女はもちろんお祝いの言葉を送る気になどならなかった。
ずるり、とドレスの裾で床を撫でながら立ち上がるその様はまるで女王のように美しい。すらりと伸ばされた背筋は誰にも屈する事の無い強い意志を感じさせる。
王座に鎮座する男と派手な桃色の上着の男との間にその身を隔たらせ、女は冷たい眼差しで招かざる客に一瞥をくれた。
「あなたの出世も含めて俗世の事になど興味もないわ、ドフラミンゴ」
きっちりと結い上げられた黒髪に漆黒の瞳。何度見ても堪らない、と男は思わず舌で唇を舐めた。
その唇で名前を呼ばれるだけで、今は十分。だがしかし彼がそれだけで満足などするはずもない。
この世の富も名声も、快楽すらも自由気儘に手にするこの男が。
「まァそう言わずに聞けよ、
久しく呼ばれる事の無かった己の名を呼ばれ、女は微かに瞳を揺らめかせたがそれは男にも知られる事は無かった。
開け放たれた重々しい扉から玉座まで敷かれた赤い絨毯の上を大きく歩いてくるその足が途中で止まる。
玉座と下々の間を区切る僅か数段の段の前、そこでドフラミンゴは片足を空中に向けて蹴り出す。
「忌々しいヤツだぜ。いつまで強情張ってやがる」
何も無いはずのそこにまるで壁でもあるかのように何度も宙を蹴り付けた。
「おれはまだまだ上へ行く。てめェもついて来い、。こんな黴くせェとこに閉じこもるより数倍美味しい思いをさせてやる」
ギラつく視線が彼女を射抜くが、それでも女は表情を変える事は無い。鋭い瞳がドフラミンゴを見返した。
「俗世には興味がないと言ったはずよ」
その言葉に舌打ちをして、ドフラミンゴは更に言葉を投げた。
「てめェの欲しいものを、くれてやる」
彼女の唇が小さく震えたのを男は確かに見た。



「愛しております」
囁いた言葉は降りしきる雨の音にかき消されたが、男は柔らかく微笑んでいた。
無償の愛を囁いて女はうっとりと瞳を閉じる。
「おやすみなさいませ、我が主」
男の前に跪いていた身を起こして立ち上がるのと、開くはずの無い扉が重々しい音をたてて動いたのが同時だった。
よもやこの屋敷に侵入して来る者がいるとは夢にも思わなかった女は、全く予想もしていなかった事態に驚きながらも、玉座の前に立ちはだかりその腰にぶら下げていたレイピアの鞘を払った。
「フッフッフ、ようやく見つけたぜ」
楽しそうに笑い声を上げた大柄な男の事を、もちろん彼女は知らない。招かざる客の存在に、眉を盛大に潜めた。
「ここに辿り着ける『人間』がいるとは…」
普通の人間には見つからないように屋敷ごと存在を隠していたつもりだった。そうして俗世を拒みながら長い時を静かに過ごして来た。
「どうやってここに入ってきた」
「おれのモノになれ、『不死王』」
質問を無視して不遜な言葉を吐いた男に、彼女の眉が一度だけ跳ねた。
「よかろう。ここで朽ちたければ望みどおりに」
「フフフ、怖ェなァ。そういきり立つんじゃねェよ」
そう笑う男が何やら手を動かすと、女は手にしたレイピアを放り投げていた。
それが彼女自身の意思でなかったのは、彼女が驚いた表情をした事からも窺い知れる。
更にはその足が意思に反して男に向かって踏み出す。
だが、次に驚きの表情をしたのは男の方だった。
「てめェ、能力者か」
どうやってかは解らないが、己の能力の呪縛から解き放たれた女に驚く。その足はもう二度と己の方には向けられなかった。
「それ以上こちらに近づく事も、私へ能力を向ける事も許さない」
黒く濡れた瞳がギラリ、と光を跳ね返した。
「フ、フフフフフッ!気に入ったぜ!おれは必ずてめェをおれのモノにする!」
ドフラミンゴと名乗った男との、それが最初の邂逅だった。
男が出て行ってから雨足が強まっている事に彼女は漸く気付いた。



それから何度も、ドフラミンゴは彼女の屋敷に脚を運んだ。
一週間の内にに幾度となく訪れる事もあれば、三ヶ月以上姿を見せない事もあった。だが彼女の記憶からドフラミンゴの存在が薄くなる頃には必ずその姿を見せる。
その事を忌々しく思いながらも、は完全には彼を拒否する事はなく、鋭い視線を投げ付けながらも必ず彼と対峙する。
ドフラミンゴはそれが面白くて、心地良くて仕方が無かった。
それでも彼女の愛の言葉は変わらず玉座に鎮座する男へと紡がれ、決してドフラミンゴを受け入れようとはしない。
数多の女を好きに弄ぶ事のできるドフラミンゴが、たった一人の女すら好きなように出来なかった。
ドフラミンゴはそれが忌々しく、気に入らなかった。



「いい加減堕ちてきやがれ」
びくり、とその身体と心が揺らいだのをドフラミンゴは見逃さない。
「てめェの愛だけを強請る男なんざ捨てちまえ。おれなら、てめェにも、愛をくれてやる」
一言ずつはっきりと告げてやれば、は肩を震わせた。
「あなたからの愛など」
「欲しくねェか?」
「信じられない」
「信じなくてもいい。だがおれはてめェが欲しい」
ドフラミンゴにしては珍しく、じりじりとしたやり取りに耐える。
そうしなければ彼女は絶対に堕ちてはこない。
彼女の意思でなければ彼女をあの玉座から引き摺り降ろす事は不可能なのだ。それを知っているからこそ、ドフラミンゴは根気強く言葉をかけ続けた。
「あなたが私を愛しているとでも?」
「あァ、そうだ。フフフ。笑っちまうだろう?このおれがたった一人の女に焦がれてるなんてな」
この矜持の高い女王様には素直な言葉をくれてやるに限る。
事実、彼女を欲しいと思うようになってから女を抱く数は減った。少なくともこの館を訪れる時には二ヶ月前から女を断った。
まさか、と思うがそれが事実なのだ。このドンキホーテ・ドフラミンゴが禁欲とは笑うよりほかにない。
だが彼女がこの不変の館に女の香りを持ち込むのを嫌った。
既に不変を崩したドフラミンゴの存在だけでも十分なのに、これ以上彼女のご機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
その気になれば再び館ごと彼を拒否する力を彼女は持っていたのだ。そうして彼女が隠れてしまえば今度は二度とは見つける事はできないだろう。
だからこそ、時をかけてじっくりと、だが確実に彼女を手に入れる為に。
「おれと来い、。てめェの世界をおれに変えさせろ」
止めとばかりに殺し文句と共に手を差し伸べれば、ドレスの裾がぞろり、と動いた。
ゆっくりと焦らすように彼女が階段へと近づく。
差し伸べた手は、いつも彼の足が宙を蹴り付ける場所を越えていた。
一気に間を詰めてその身体を捕らえる事もできたが、それで逃してしまってはここまで待った意味が無い。
彼女が己の元に来るまで、ドフラミンゴはじっと耐え続けた。
長いドレスの裾を引き摺って女が一段、また一段と階段を下りてくる。
一度、彼女は振り返って玉座の男を振り返る。男はこちらを見てはいたが終ぞ、その視線は交わる事はなかった。
、愛しているぜ」
彼女の最後の未練を断ち切らんと声をかける。
触れた事すらない女に対してよくもそんな事が言えたもんだと思ったが、それでも彼女にはこの言葉をくれてやりたいと思った。
ずっと欲しかった言葉は、玉座の男からではなく、招かざる客から与えられ。
つ、と伏せた瞳が次に開かれた時にはドフラミンゴの姿を捉えていた。
そして彼女はついに最後の一段を超えて男の前に立った。
その頬に触れると、冷えた肌が一層実感を齎す。
「フッフッフ」
思わず笑みがあがる。
「ようやく触らせやがったか」
逃さぬように腰を抱きこむと、戸惑うように彼女の顔が背けられる。
「おれを見ろよ、
その言葉に彼を見やった彼女の唇に己のそれを重ねた。
「愛してやるぜ、骨の髄までな」
甘すぎる程の言葉にうっとりと目を閉じた女のその表情に堕ちたのは自分のほうだと、ドフラミンゴは気付いているのだろうか。



20100824