人は日々、如何ほどの覚悟を持って生きていると言うのだろうか
大なり小なり、人それぞれの覚悟はあるのだろうが



手折れども 美しく




明るかった筈の空はいつの間にか暗くなり、どこか遠くでは雷も鳴っているようだった。
もう間もなく嵐になるだろうと予測しながら、雨が降り始めたら洗濯物を入れなければ、と何度か外を覗いてみるのだがなかなか雨粒は落ちてこない。
空ばかりがどんどん暗くなる中、何度目かベランダに出た時、はソレを見つけてしまった。
いかつい黒塗りの高級車。いかにもなそのが車マンションの前に止められているのを知って、否が応にもこの後の運命を悟る。
せめて突然のインターフォンでなかっただけ良しとしよう、と思い直るしか無い。
きっとこれから連れ出されてしまうのだろうから、と洗濯物を取り込んでしまうと予想通り、インターフォンが来客を告げた。
「はーい…いますけど、出たくないですー」
聞こえていないと分かっているからこその返答をしながら玄関へ急ぐ。出来ればこの来訪者の姿をご近所さんには見られたくない。
気乗りしない緩慢な動作で扉を開ければ、やはり。強面の男達が待ち構えていた。
かっちりとスーツを着込んだ厳つい男達に「お疲れ様です!姐さん!」と頭を下げられれば戸惑いと焦りを抱く。
膝に手をやり、腰を低くしたその独特のお辞儀の仕方はどこからどう見てもその筋の人だが、彼女はそんな人達から頭を下げられるような人間では、本来ないのだ。
それでも黒服の男達がこうして礼を示すのは、男達の上司にあたる男が、彼女の事を自分の女だと公言しているからに他ならない。
正確に言えば、はその男とそんな仲になったつもりはないのだが、あちらさんはもう既にその気のようで、誰が何を言おうとも一つも譲る気もないのだろう。
兎にも角にも、マンションの前にいつまでも明らかにその筋と分かるような黒い車を止めておくわけにもいかないから、は急いで支度をした。
後から行くので先に車に行っていて欲しいと願ったのだが、きちんと案内しなければ親父に殺されてしまう、と男達が口をそろえるものだから、仕方無く彼らと共にエレベーターに乗り込むしかなかった。
エレベーターホールから玄関口に出るまでの間にマンションの住人とすれ違い、両脇を黒服の男達に固められた彼女を驚きの顔で見てから直ぐに何事も無かったかのように視線をそらされる。
私だってこんな場面に出くわしたらそうする、と他人事のように思いながらは小さな溜息をついた。まだ、同じ階に住む顔見知りでなかっただけましだ。
その溜息に気付いた男が少しだけ申し訳なさそうにするが(彼等は彼等の上司よりもいくらか常識と言うものを持ち合わせているらしい)、彼女の杞憂よりも親父からの言いつけを守る事の方が当然ながら大事なので彼女の傍を離れるような事はなかった。
彼らにはなんの非も無い筈なのだ。多分。
そうして威厳たっぷりのフルスモークのかかった車に辿り着き、後部座席のドアを開けてくれた男に礼を言いながら乗り込む為に身を屈めると、そこに良く見知った男の姿があって、は少しだけ驚いた。
「いらしてたんですね、真島さん」
彼女を迎えに来た男達から『親父』と仰がれる人間、真島組組長、真島吾朗その人がそこにいた。
「急に押しかけてすまんなぁ。まぁ乗りや」
迎えを寄越した張本人が車で待っているとは思っていなかった彼女はその姿に意表を付かれたのだが、いつまでもそこに突っ立っているわけにもいかず、失礼します、と彼の横に乗り込んだ。
しっかりと彼女の身体が車内に収まったのを確認した男がドアを閉め、助手席に身を落ち着かせると、直ぐに車は動き出す。
「そんで・・・どないや」
おもむろに口を開いた真島は、だがぼんやりと窓の外を見つめていて、思考はどこか別のところにあるようにも窺える。
彼の言いたい事は分かっていたが、は言葉を返す事が出来なかった。
いつもならば、人を喰ったような笑みを浮かべて饒舌に話す真島の口数が異様に少ない理由も解っている。
「まぁだ決心つかんのかいな」
溜息交じりの言葉に、はすみません、と言うしかなかった。
「・・・結構待った方やと思っとるんやで、これでも」
「そう、ですね」
微妙な返事をした彼女は、過日真島に言われた言葉を思い出していた。
一月程前、『真島組の姐さんになって欲しい』と言われた事を。
返事は待つ、とは言われたが、まさか一月以上も待たされる事になるとは、真島も思っていなかったのだろう。
それでも強要も出来なかったから、彼にしては随分と大人しく待っていたのだ。彼女の返事を。
だが、一月を経てもなんの音沙汰も無い彼女に、ついに痺れを切れしてこうして迎えに来た。
とて一月以上もの間、ただ逃げ回っていたわけではなく、これ以上にないくらいに真面目に考えていたのだ。
『姐さん』と呼ばれる事になる。極道の女になると言うその意味を。
いっそ妾にと言われたのならばもっと楽であっただろうと思う。
囲われてしまえば、ただ彼が訪れる時だけ、彼の望む女であればいい。
彼の居ない時は好きなように過ごし、不自由しないだけの金を貰って気儘にも生きれた。
だが、関東で最大勢力を誇る東城会、その直系のしかも組長程の男になれば、その妻も楽な道は歩めないであろう。
明日があるかどうかも分からぬ男の帰りを待ち、支え、そしてたくさんの『子供達』を抱える事になる。
堅気として生きてきた人間には想像もしていなかった道を歩む事になるのだ。
考えても考え切れぬ程の不安と恐怖、それでも真島の申し出をきっぱりと断ってしまわないのは何故なのだろうか。
本当はもう、告げるべき言葉など決まっているのではないかと頭のどこかで思いながらもその口は重く開く事が無いまま、車は走り続ける。



賽の河原の地下街。
一般人は存在すらも知らないであろう場所に足を踏み入れたは、何気なく背後を振り返った。が、地上へと続く階段は既に見えなくなっていて、ただ真島に向かって頭を下げるスーツ姿の舎弟達がいるだけ。
張り見世のような格子の嵌められた部屋がいくつも並ぶ、まるで遊郭のような造りの地下街。赤く塗られた柱。
この街の何もかもが現実離れしすぎていて、戻る世界などないのだと、覚悟の時を迫られているような感覚。
一歩進むごとに俗世が遠ざかって行くような気すらして、足も気も重くなる。
これが年貢の納め時と言うやつなのだろうか。
沈鬱な気持ちを抱えたままの彼女を余所に、真島は奥へ奥へと進んで行く。
襖を開いた先は机と座布団が用意された部屋で、この街の雰囲気からして布団でも用意されているのではないかと身構えたは、思わずほっと息を吐いていた。
「まぁ座りや。ゆっくり話そうやないか」
彼女を上座に座らせた真島がどっかりと腰を下ろすと、一人の女が茶を運んで来る。
緊張の為か乾ききっていた口内を茶で湿らせると、いくらか気持ちが落ち着いた気がして、は正面から真島に向き合った。
いつもとは違う、初めて見るスーツ姿の彼に、この話がお遊びでない事を改めて感じる。
チャンみたいな堅気さんにはしんどい話かも知れんけどなぁ・・・」
そう語り始めた真島に思わず顔が引き攣りそうになるのを必死で堪えた。
実を言えば、は真島が思うような生粋の堅気ではない。若い頃は色々と無茶をやらかしたものだ。
だが、今の彼女を知る人間のうち誰一人としてその事を知る者はいないし、彼にもそれを知らせるつもりもない。
社長秘書なんてお堅い仕事をしていたのも、当時の面影を消す為に他ならない。
だが逆に言えば、荒んだ世界を知っているからこそ、真島と同じ世界に身を置く事のなんたるかを知っているとも言える。
もちろん、子供のお遊びにも等しいあの頃とは比べ物にならない程、こちらの世界は甘くは無いだろうが。
しかし、だ。
ここ最近真島の傍にいた事で揉め事に巻き込まれる事の少なくなかった彼女は気付いていた。
なんだかんだと言いながら、体を動かしている事の方が性に合っている、と言う事に。
堅苦しいスーツに身を包み畏まった風を装って方々に頭を下げているよりも、ライダースーツを纏いバイクで風を感じている時や、時折訪れる衝動に身を任せて荒事に興じている時の方が、確かに『生きている』と言う実感があるのだ。
(所詮は私も『こちら側の人間』と言う事か・・・)
決して口には出さなかったが、そう思うを余所に、真島は大真面目な顔で彼女を見やる。
「ワシが嫌いか?」
うっかり自分の思考に耽っていたは、真島の話が飛躍していた事に驚いて、呆けたように彼を見つめ返し、それから慌てて首を横に振った。
「いえ、嫌いなんて事は、決して」
「ほんなら好きか?」
どこか寂し気な色を浮かべた隻眼を見てしまい、思わず即座に否定はしたが、ならば好きかと問われれば即答は出来ない。
「正直・・・まだ、そこまでは・・・」
ヤクザ者である真島と知り合ったのは仕事の上での事だったし、自分とは住む世界が違う人間だと思っていた。
仕事が終わればその縁も切れると思っていたし、彼をそう言う対象としては見ていなかったのだから、嫌いではないにしても好きであるとは言い難い。
ただ、真島と言う人間を嫌っているわけではないのは確かだ。
「そうやってはっきりモノを言うところが好きやで」
正直に胸の内を告げる彼女に、真島は笑みを浮かべる。
この男を前にして微塵も怖気づく事なくものを言う人間など、そうはいないだろう。
「腕も立つし肝も座っとる。こないにイイ女、そうそうおらん」
本人を目の前に彼女を褒めそやす真島に、思わず頬に血が上る。
彼の目の前で幾度と無く敵対する人間を叩きのめした、その事を讃えられると言うのは心情的には複雑だが、自分と言う人間を随分と買って貰っているものだ。
女性を褒めるのにはいくらか物騒な内容だとは思うが、それも真島と彼の住む世界の事を思えば仕方の無い事か。
こうして彼と話しながら一つ一つ突き詰めていくと、迷う理由など何一つない事に気付いてしまう。
結局は、彼女の覚悟だけなのだ。
「・・・一つ、お聞きしてもいいですか?」
やがて、考えを巡らせながら茶器を手で弄んでいた彼女が口を開いた。
「どうして、私なんですか?」
「お前以外におらんからや」
真島ほどの男ならば彼の隣をと望む女も少なくない筈だ。
それでも敢えて自分を選んだ理由を尋ねてみると、答えになっていないような返事が返ってくる。
しかし、実にあっさりとした真島の返答は真理でもあるのだろう。
彼女でなければ、極道の世界に足を踏み入れる事を躊躇う事すらなかっただろうとも思う。常識的に考えれば拒否されて当然の話だ。
そして真島が自らの傍に立つのは彼女しかいないと決めたのであれば。
「・・・真島さん」
「なんや」
茶器から外した手を膝に置き、僅かに居住まいを正した彼女を、真島は隻眼でじっと見詰める。
「不束者ですが、宜しくお願いします」
『貴方の妻にしてください』とも、ただ『わかりました』と言うのもなんだか違うような気がして、結局口から出てきたのはそんな言葉だった。
頭を下げる彼女の耳に、深い溜息が聞こえてきて思わず顔を上げると、どこかほっとしたような真島の姿があった。
「焦らし過ぎやでジブン。断られたらどないしよか思たわ・・・ここまで来て恥かかされんのはゴメンやで」
言ってから音を立てて茶を啜った彼は、一見そうは見えなかったのだが、彼は彼なりに緊張していたのだろう。
堅気の女一人の人生を、大きく変えてしまうと言う自覚がある故にか。
もし、自分が否と答えたら彼はどうするつもりだったのだろうかと、ふと考えて、は直ぐにそれを考える事をやめた。
既に覚悟は決めたのだ。一度決めた事ならば後ろを振り返ったり、他の未来の事を思うのは彼女の性分ではない。
この世界に生きると決めた以上は、真島吾朗と言う男の傍で、彼の背負う矜持に見合うだけの生き様を、精一杯と。
・・・」
ほんの僅か前までは『チャン』付けで他人行儀に呼ばれていたのに早くも呼び捨てになっているあたり、彼らしいと思うと同時に、既に自分が彼のものであると言う事を実感できてなんだかむず痒い気持ちになる。
「なんです?」
だが彼女を呼んだ方は至極真面目な顔をしているものだから、も畏まって返事を返した。
「早速なんやけど、これからちょっと忙しくなると思うわ・・・。すまんけど覚悟はしといてや」
既にこれ以上ない覚悟を決めた身としては、もう何があろうと驚くまいと思うのだが、彼なりにその身を気遣ってくれているのかと思うと自然と表情が綻ぶ。
「どこまでも、お付き合いしますよ」
そう、覚悟の程を告げると、真島は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「やっぱエエ女やで、ジブン。ほな、帰ろか」
軽い口調で言う真島に倣って立ち上がると、何やら悪戯を企んでいるとしか思えない、はっきり言って人相の悪い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「驚くなや、
言うや否や、勢い良く襖を開いた真島の先に見えた光景に、思わず息を飲んだ。
そこは、地下街の床が見えなくなる程の黒服の男達で埋め尽くされている。
彼等の襟元には一様に、真島組の代紋が掲げられているであろう事は確認などしなくても分かる。
「親父、姐さん、お疲れ様です!」
西田が声を張り上げると同時に、男達が一斉に頭を下げる。
ここに連れてこられる前にも見たあの、膝に手をやり腰を低くして頭を下げる独特のお辞儀。
改めて、極道の世界に足を踏み入れた事を思い知り、は眩暈を感じて蹈鞴を踏んだ。
微かにふらついた彼女を支えるように、真島の腕が腰に回される。
「よぉく見とき。これがぜーんぶお前の子供達やで」
そう口角を上げて笑みを浮かべる真島の、腰に回された腕に僅かに力が篭る。その力強さに勇気付けられるように、は足を踏み出した。
男達の間を縫って真島の横を歩く。
この先に何が待っているのかも、これからどうなるのかも分からないし想像もつかないが、それでも彼女はもう躊躇う事は無い。
極道ならば極道らしく、命ある限りこの男の傍で。
真島吾朗と言う男の為に、咲き誇ってやろうと。
こうして彼女は、血生臭くも華々しい極道の世界へと足を踏み入れる事になる。



20130111