そんなに難しい顔をするもんじゃない。
結果は後からしかついてこないのだから。
迷う前に進む事。



力を抜いて




「おやおや、これはまた、酷い顔だ」
城の裏側に当たる城壁の上。
人気の無いそこで、何処に焦点を合わせるでも無く景色を眺めていた張遼が、すぐ近くで聞こえた声に微かに動揺して振り向けば、果たしてそこには一人の女が立っている。
こんな近くに来るまで気配を感じなかった事もだが、何より女のその姿に、張遼は一瞬呆気に取られて声を出す事すら忘れていた。
女はまるで夜着のような薄い着物一枚を身に纏っただけで、しかもその裾や胸元は緩く肌蹴ているのだから真面目な張遼が言葉を失ったのも無理は無い。
着物を着崩していながらも厭らしさを感じさせないのは、その物腰のせいだろうか。
男に媚びる様な視線は持ち合わせておらず、先程の口調からしても、気風の良い姐御肌と言った感じだ。
背丈は一般の女性よりはやや高く、露わになっている脚も引き締まっているからか、艶やかな印象は受けなかったがその健康的な色気は無視できず。
相手にも己にもその気がないとしてもやはり困る。というのが本音で。
「貴女は…?いや、それよりその…もう少しご自分のお姿に気をつけられた方が…」
そう言いながら視線を再び城壁の外へと飛ばすと、女は肩を揺らして喉の奥で笑った。
「いやいや、噂どおり真面目な方だ。気を悪くしないでくれ、私はいつもこうなのだ」
女はそう言うと、いくらか着物の乱れを整えて張遼の隣に並んだ。
「ところで、貴女は…?」
女が身だしなみを一応整えたのを確認して、張遼は再び問う。
仮にも武将である己へのこの口の聞き方からして女官だとは思えないが、かと言って仕えるべき主のご息女とは、お世辞にも思えなかった。
ご令嬢、と言うには砕けてしまっているその女は、また肩を揺らして笑う。
「覚えておられないかな?まぁ、それも仕方ないか」
飄々とした、それでいて人好きのする笑顔を浮かべて張遼を見る。
「先日、曹操の隣のその夏侯惇の隣にいた武将を覚えていないかい?」
言われて張遼は暫し考え込む。
そうして『先日』というのが一体いつの日の事だか、ようやく気が付いた。
それは自分を含めた呂布軍が、曹操軍に負けた日の事。呂布や陳宮、そして己の処分が決められた日の事。
前の主の最後の瞬間からまだ日も浅い為生々しくその事を思い出しそうになり、張遼は努めてその記憶を飛ばし、その時に曹操の隣…の夏侯惇の隣にいた人物の事を思い出し。
「思い出したかな?それが私だ」
女の言葉に張遼は驚きの表情で彼女を見つめた。
隣に立っていた夏侯惇が立派だったというのもあるだろうが、確かにその隣の人物は小柄に見えた。
重々しい鎧に身を包んでも尚、小柄に見えていたその人物がまさか女性だとは、張遼は夢にも思わなかったのだが。
「まさか…貴女のような麗人があの場に…のみならず戦場に赴いていたとは…」
この時代、武器を取る女性は僅かではあるがいなくも無い。だが、まさか魏の武将を勤める程の女性がいるとは。
「なに、そんな手練の者と言うわけでもないさ。ただ、孟徳や元譲とは古くからの腐れ縁でね。彼等の旗揚げの頃からいる、古参の将ってだけでね。ああ、私はと言う。よろしく張遼殿」
そう、気さくに手を差し伸べて来た彼女の手を握って、微かに張遼は緊張した。
豪放なところもあるが彼女は充分に女性として魅力的な人物だったし、何より先日の戦で加わった新参者の自分に声をかけているこの人物はこれでも曹魏きっての古参の将なのだ。
「私は張遼、字は文遠と申します。どうぞ宜しくお願い致す」
心持ち上擦った声で答えると、と名乗ったその女はにこりと微笑む。
「これはこれはご丁寧に。本当に真面目な方なのだな、張遼殿は。孟徳にも見習わせたいものだ」
先程から、真面目だ固いだと言われているが、目の前にいる人物は自分の君主を字で呼ばわる程の人物だ。
自分のような新参者がそのような人物の前で態度を崩せるはずも無く。
「張遼殿、ここに力が入りすぎているよ」
己とは違うその繊細な指に、眉間を小突かれて張遼は不覚にも己の心臓が跳ねるのを感じた。
緊張の前にはすぐに消え去ってしまう程度のものではあったけど。
「とりあえず座りなよ、張遼殿」
彼女はそう言うと、その場にぺたりと腰を降ろしてしまう。
女性であると言うのに少しも躊躇う事無く、おもむろにその場に座り込んでしまった彼女を見やれば、相変わらず飄々と穏やかな笑みを浮かべていて、張遼は何故か拒む事が出来なかった。
自分に倣って腰を降ろした張遼を見て満足気に微笑むと、は持参してきていた風呂敷包みから酒の入った小さな甕と杯を取り出し。
まさかこれから自分相手に一杯やるつもりなのだろうか…と張遼が思っていると、やはり彼女はそ杯の一つをこちらに向けて差し出してくる。
殿、一体…」
「まぁまぁ。そんな小難しい顔してないで一杯やろうよ、相手が私では不服かもしれないがね」
「いえ、そのような事は…」
そう言われてしまえば断る事も出来ず、張遼は杯を受け取るしかない。
はにこにこと笑いながら張遼の杯を酒で満たし、次いで自分の杯にも酒を注いだ。
軽く杯を交わし、一気に中身を煽る彼女に張遼も躊躇いがちに杯に口をつけた。
「ああ〜染み渡るねぇ〜」
幸せそうに息をついた彼女は早くも二杯目を注いでいて、一体何をしにこの場所に来たのだろうかと張遼が訝しげな視線を向けていると、の漆黒の瞳が張遼をじっと見つめ返していた。
「張遼殿、まだ魏軍には慣れていないようだね。ここは辛いかい?」
そう言われて張遼はようやく気付く。
が何の為にこのような所にいるのか。
魏軍の将として迎えられてから数日がたった今でも、他の武将達と交わる事無く、人気の無い場所に佇む己を心配しているのだ。
確かに張遼は、主だった武将達に最初の挨拶をしたきり、あまり関わり合いを持っていなかった。
「辛くは…ありません」
確かにこの乱世、昨日の敵が今日の友になる事もある。
そして、それを容易く受け入れられる者もいればそうでない者もいる。
暫く自分には好奇と疑念の眼差しが向けられるであろう事は分かっていた。
張遼はそれを仕方の無い事だと思っている。更に、そういったものは時間をかけていくしか無い事も分かっている。
だから、その件に関しては全く杞憂は持っていない。
「ですが…」
言葉を切った張遼の横顔を、はその漆黒の瞳でじっと見つめているだけ。
派手な輝きを見せないその漆黒の瞳は、相手をしっかりと映し出し何処か安心感すら抱かせて、張遼は促されるまでも無く次の言葉を継ぐ。
「未だ迷っております」
「迷っておられますか…」
の目がすっと細められた。張遼の話に興味を持ったのだ。張遼の真意を汲み取ろうとするようにじっと彼の顔を見つめている。
「私の求める武が…強さが本当にここにあるのかと」
張遼は、呂布こそ最強の男であると、最強の武であると信じて付き従っていたのである。
その武が曹操によって打ち破られ己の武を求められた時、張遼はそれに応じたがやはり最強の男は呂布ではないかと思っている。
「張遼殿はやはり男だな。強さ…武か…。私には良く分からぬ」
はそう笑うと、三度杯に酒を注ぐ。
「分からぬ。…が、張遼殿は間違っておられると、そう思うよ」
「…間違っている?」
今度は張遼がを見やる。
「私も戦場で見たよ、呂布の事はね。あの男は…恐ろしい…恐ろしいくらいに強く、大きい男だ。天下とはまた違った純粋な強さを見ていたけど…。孟徳の見る天下の前に、呂布は大きく強すぎた。そして、孟徳の強さと…それは違う」
「違い…ますか」
は、空になった張遼の杯に酒を注ぎ足しながら、違うだろう、ともう一度言った。
「私が言うのも気が引けるけど…。呂布の強さと孟徳の強さは質が違うと…そう思うよ。張遼殿がそのどちらを求めているのか、それはまた別の話だけどね。孟徳と呂布の強さは、比べられる次元のものではない」
前の主、呂布の強さは確かに天下無双、比類なき強さだった。だがそれは、一人の男としての武。
今の主、曹操の強さは国として、一国の主としての強さ。
確かに比べるべき次元にあるものではないと思う。
「張遼殿は…どちらの強さが正しいと、思うのかな?」
どこか挑むような視線で見つめてくるに、張遼は軽く首を振る。
「どちらも…間違っているとも思いませぬ。殿の言われる通り、確かにあのお二方の強さは質が違うもの。比べるべきものではございませんな」
その言葉には我が意を得たりとばかりに頷いて見せる。
「ならば張遼殿、あとは貴方のお心次第。ここでまた違う強さを求められるのも宜しいかと思われるがいかが?」
暫く考え込むように瞳を閉じた張遼は、やがてその眼を開くと、杯の中に残されていた酒を一気に飲み干した。
その様子を見ては満足そうな微笑を溢す。
「貴殿には余計なお心遣いをかけさせてしまったようですな」
迷いの消えた張遼の表情からは固い壁のようなものも消え去っている。
「なに、お節介なのさ、私は」
の表情もいつもの飄々としたものに戻っていた。
「貴方も孟徳が欲した武の一つなのだ。遠慮する事はない、その強さを見せて欲しいよ」
「ならば、早速お手合わせでも願いましょうかな、殿」
張遼の軽口に、は笑いながら肩を竦めて見せる。
「お手柔らかに頼むよ、張遼殿。先程も言ったけど、私はそんなに手練の者では無いのだからね」
そんなについつい笑いを引き出されながら、張遼は体の力が自然に抜けていくのを感じた。
女性であるが故の細やかな気配りと、情緒に関する確かな洞察力。
確かに彼女も魏にとってなくてはならない存在なのだと、張遼は強く思う。
曹操は己が気に入った人材であれば、その前身を問う事は無い。
それ故に様々な人物が集まるこの国で、曹操の目の届かぬところで武将や文官同士の場を取り持っているのが、彼女なのだろう。
それをお節介だと彼女は言い切るけれど、その心遣いのお陰で救われる者もいるのだろう。



「ここの力が抜けたみたいだね」
はそう言って、張遼の眉間をもう一度指でつついた。
「これからも、宜しくお願い致しますぞ、殿」
そう笑って見せたが、まさかそれがその後そんなに長く、そして深い関係になって行くとは張遼も、そしてすらも思いもしなかったのである。



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