遠い約束




呂布は朝から機嫌が悪かった。
帝の身柄を手中に収め横暴を極めんばかりの董卓は、ついに呂布に護衛兵をつけろなどと言い出す始末。
護衛兵など必要ないと呂布は激しく抵抗したが董卓は巌として聞き入れず、結局呂布は護衛兵を一人つける事を了承しなくてはならなかった。
昼頃にその者を挨拶に行かせるから屋敷にいろと言われたが、呂布の方は全く会ってやる気も起こらず、家人が止めるのを振りきって赤兎と共に遠乗りに出てしまった。
随分と遠くまで駆けて河の辺りまで来てから、赤兎を休ませ自分は草叢に転がる。
赤兎は頭の良い馬だ。手綱を解き放っても主人の傍を離れるでもなく、近場の草を食んでいる。
「俺に護衛兵など必要ない」
誰に言うともなく空を睨みながら吐いた呟きに応えるように赤兎が鼻を鳴らす。
「お前もそう思うだろう赤兎」
赤兎がまた鼻を鳴らしたので、呂布は少しだけ機嫌を良くした。
「俺の護衛が務まる奴などいるものか」
そう呟くと同時に、蹄の音が耳に届いた。赤兎も顔を上げ、音のする方向を確かめるように耳をうごめかしている。
やがて一騎の騎馬が迷う事なく此方へ目掛けて駆けてくるのが確認でき、呂布は小脇に置いていた方天戟を引き寄せた。
「奉先!!」
何者かと問うより先に、馬上の人物は呂布の字を声高々に叫び、次の瞬間鞍を蹴り呂布の胸へと踊りこんで来る。
反射的に方天戟を投げ出し飛び込んでくる身体をなんとか受け止める。僅かな衝撃と共にふわりと華のような芳しい香りが呂布の鼻腔を擽った。
…か?」
覚えのある香りを引き金に瞬時に呼び起される古い記憶。
遠く故郷で常に呂布と共にあったが故郷を離れる時に袂を分かったはずの女。
馬上の人となった呂布に、女でありながら唯一着いて来た女。
同い年でありながらどことなく姉貴風を吹かせる彼女を、呂布は昔から憎からず思っていた。
「本当になのか…?」
「なんだ奉先。暫く会わぬうちに私の顔すら忘れてしまったのか?」
忘れるはずがない。強い光を宿した漆黒の瞳で不敵な笑みを浮かべる彼女の顔は、呂布の脳裏に焼き付いて消える事などなかった。
思いもよらぬ再開に言葉を失っている呂布を見て苦笑いを浮かべた女は、呂布の腕からするりと逃れて自分の愛馬を呼び寄せ、その美しい黒い身体を撫でる。
「何故、貴様がここにいる?」
未だ彼女が目の前にいる事が信じられない呂布が尋ねると、少し怒ったような口調では答えた。
「何故って、私が挨拶に行ってやったのに大人しく屋敷にいなかったからわざわざここまで追ってきたんじゃないか」
その言葉に、呂布はまた新たな驚きをあらわにする。
「まさか、新しい護衛兵と言うのは貴様の事だったのか?」
そうと分かっていればこんな所まで遠乗りになど来なかったのにと思っていると、不意にの手が伸ばされ、呂布の頬に触れる。
「忘れたわけではあるまいよ、奉先?あの時の約束を…」
触れられた頬が熱くなっていくのを呂布は自覚した。同時に、遥か昔に交わした約束が蘇る。
「貴様こそ…覚えていたのか…」
「覚えているさ。奉先…お前の背中は私が守ってやると…そう言った」
彼女の口からはっきりとあの時交わした約束の内容が繰り返されて、呂布は堪らず両の腕を伸ばしてを抱き締めた。
「遅かったではないか」
胸に顔を埋めてそう呟く呂布の頭を穏やかに抱き締めて女は応える。
「私は女の身…お主のようには行かぬ。時間がかかったのだ。許せ」
「ふん…許してやらん事もない…」
彼女が来る事を待ち侘びていたのだと言わんばかりの己の発言を誤魔化すように鼻を鳴らした呂布は、のその柔らかな身体に顔を埋めたまま。
誰もついて来る事の出来ない呂布の強さに、唯一、彼女だけがついて来る事が出来た。そのが、今も尚こうして己を追って姿を見せてくれる事のなんと愛い事か。
「貴様だけが…俺を追ってこれる…」
「そうだな。奉先…お主の背中を守れるのはこの私だけだ」
否定するでもなくそう言い切る女の潔さが、呂布には心地好い。
「私はいつまでもお主の背を追い続けるさ」
顔を上げれば優しく微笑むの姿が目に入る。
無性にその存在が愛しくなって、呂布は彼女を抱きしめる腕に更に力を込めた。
赤兎との愛馬が並んで草を食んでいる。



20150124加筆修正