人の心を捕らえると言う事は、簡単なようでいて難しい。
だから、いとも簡単に。あっけなく。
いくらだって揺らぐのだ。



移ろう心を懼れる心




昨日帰還したばかりのが、机に向かって報告書を纏めていると部屋のドアがノックされた。
、いるか?」
姿を見せたのは14番隊の隊長を務めるスピード・ジルだった。
「ジル、どうしたの?」
ペンを走らせていた手を止めて扉の方を振り返ればジルは彼女を手招きしながら言う。
「今度うちの傘下に入るっていう海賊団が挨拶に来る。隊長達は全員顔を見せろってオヤジの命令だ」
報告書がもう少しで書き上がるところだったが、そう言う事ならば仕方がないとはペンを置いて立ち上がった。
ジルと並んで甲板へと向かいながらなんとは無しに訪ねてみる。
「傘下の人達が挨拶に来るなんて事があるのね」
「ああ、お前は船を空けてる事が多いからな。時々あるんだぜ」
大渦蜘蛛と言う二つ名を持つスクアードやディカルバン兄弟など傘下の海賊達の事は彼女も知っていたが、彼らもこうして挨拶に来ていたらしい。
そのいずれも任務で船を空けていた彼女は己のタイミングの悪さを知って苦笑した。
「どんな人なの?」
「今度のは『氷の魔女』って言われてる砕氷船を操るヤツらしい」
「『魔女』って事は女の人なんだ」
ナースや自分達以外の女の海賊を見るのは初めてだった彼女は少なからずその海賊に興味を抱いたようだった。
ジルに続いて甲板へと上がれば、既にそこには他の隊長達が揃っていて、我が海賊団の事ながら圧巻だとは目を細めてその光景を眺める。
「オヤジ、報告書は後でも大丈夫?」
もう少しで書き終わるんだけどと告げると彼は声を上げて笑った。
「そんなモンは後で構わねェ。どうせ今夜は宴だ。明日にしろ」
オヤジ直々の許可が下りたので、は遠慮なく報告書の事を頭から追い遣った。
良く見ればモビーディック号の横に氷の結晶を象ったのであろう模様を散りばめた船が横付けされている。
船長が女だと言うだけあってなかなかに凝った装飾をされている船を興味津々といった風で眺めていると、やがてそこから一人の女が此方へと渡って来た。
「なかなか可愛いじゃねェか!」
隣に立っていたラクヨウがその姿を一目見て小さく声を上げ、隣にいたサッチが頷いている。
男と言うものはそれしかないのかと内心溜息をつきながら、後でサッチがご執心の彼女に告げ口してやろうと心に決めた。
そうこうしているうちに彼女は甲板へと降り立ち、オヤジを始め隊長達をぐるりと見回して口を開いた。
「流石に圧巻だね。隊長達が揃ってると」
その一人であるでさえそう思うのだから傍から見てもそうなのだろう。
この光景に感嘆の声を洩らしたベイに、白ひげの笑い声が降り注いだ。
「良く来たな、ホワイティベイ。お前がおれの娘になるのを心から歓迎するぜ」
声を掛けた白ひげを見上げるようにしてベイが嬉しそうに微笑む。
言葉を交わしている二人を見守りながらは彼女をじっと観察していた。
アイスブルーの髪はふわふわとしていて、触れたら柔らかそうで。身につけている服は可愛らしく、それでいて海賊らしくもあって。
ナースのお姉さま方とはまた違って確かに魅力的だと思った。ラクヨウやサッチが可愛いと彼女を賞賛する気持ちもわからなくはない。
年の頃はと同じくらいに見えて、ナースや部下達以外に親しい女海賊を知らないは彼女とも仲良くなれたらいいと思った。



隊長達の自己紹介が終わってしまえば歓迎の宴が直ぐに始められた。
ベイの船のクルー達もモビーディック号に上がり、あちこちでジョッキが交わされる。
「どいつもこいつも浮かれ過ぎだよい」
いつの間にかの隣にやってきていたマルコが呟いた。
ベイの船にはやはり女も多く乗っていて、身内以外の女の存在に男達が浮かれているのは一目瞭然だった。
「まァ、仕方ないんじゃない。姉さん達や私達じゃ見慣れちゃって目新しくもないんだろうし」
そう零す彼女にマルコは意外そうな表情を浮かべて小さく笑う。
「嫉妬かい?」
「違うわよ。率直な感想よ。男って分かりやすいな、って言う」
クルー達が普段から共にいる自分達を差し置いて他の船の女に現を抜かしていようがいまいが、には全く関係の無い事だった。
ナースや0番隊しか女がいないからと言ってこの船のアイドルになったつもりもない。自分達は女で彼らは男で、それが一緒に白ひげの元に集った。それだけの事だ。
ただ、男と言うのは正直で面白いと言えば「お前も言うようになったなァ」とマルコは肩を揺らして笑った。
そんな二人の下にジョッキを片手にベイがやってきた。
「改めてよろしくしたいと思ってさ」
とジョッキを掲げられ、マルコももそれに応えてジョッキを鳴らし合う。
まだ名前が一致しないと苦笑する彼女にもう一度名前を告げ、三人は他愛の無い会話を交わす。
なんだかんだ言って、身内以外の女海賊と話をする機会の無かったも彼女と話が出来たのを嬉しく思っていたのだが、不意にその肩がびくりと揺れた。
「しかし、流石に白ひげ海賊団の隊長達ともなると皆強そうで男前揃いだね。その中でもアンタが一番だよ。『不死鳥マルコ』」
その言葉に他意は無かったのかも知れない。だが思いもよらない言葉にの表情が一瞬だけ強張る。
直ぐに平静を装ったが心の奥底でざわりと蠢いた感情を知り、ジョッキに残っていた酒を一気に煽った。
「新しいの、貰ってくるわ」
そう言ってそそくさとその場から離れて行く彼女の心情を正確に推し量ったマルコの口から小さな溜息が漏れる。
「おい、ベイ。お前あんまりそう言う事言うなよい」
マルコの言葉に一瞬首を傾げたベイは、直ぐに気付いて笑みを浮かべる。
「本当の事だよ。あたしはアンタの事、気に入ったけど」
ベイはマルコとの事を知らない。だから悪気はないのだろう。だが、その率直な言葉はあの女の心を揺さぶるには十分だった。
「お前が本気だってんなら悪いが、おれは間に合ってる」
そう言い切るマルコにベイは目を丸くしてから苦笑した。
「なんだ、そうなの?あっと言う間にフラれちゃったね」
気に入ったと言う言葉に偽りは無いのだろうが惚れたと言う程熱い思いでもなかったようで、あっさりとした表情で言ってのけたベイは因みに、と付け足して尋ねた。
「アンタのイイ人ってどんな女?」
「…今までここにいたよい」
その言葉にベイは目を見開いた。自分の言葉を心の中で反芻し、しまったと言う表情を浮かべる。
「あたし、悪い事しちゃったね」
そう言ったベイが首を巡らせれば遠くの方で人ごみに紛れていく赤い髪が見え、ジョッキをマルコに押し付けたベイはその姿を見失わないうちにと駆け出した。



胸の奥底で蠢いた感情をなんと言うのか、は解らない。
ただ、嫉妬とも少し違うような気がした。
傘下になったばかりのベイが二人の関係を知らないのも仕方が無い事だし、もし知っていたのだとしても、彼女の心がマルコに向いているのだとしたらそれをどうこうする権利はにはないと思っている。
だが目の前であんな場面を見せられた彼女の心はいとも簡単に揺らぐ。
昔は娼婦等にも妬いてマルコに雷を喰らわせた事もあったが、今もそんなに変わらない。雷を繰り出さなくなっただけマシなだけで、逃げるようにその場を離れた彼女の心情をマルコはきっと悟っているだろうし、飲み物を取りに言った筈の自分が戻らなかったらベイも気にするだろう。
けれどもう一度あの場所に戻る気にもなれなくて、人気の少ない船首に逃げて来た。
「ガキか私は…」
船縁に手をかけて項垂れるように凭れ掛かる。
マルコの事は基本的には信用している。だが他の誰かから想いを向けられる場合もあるのだと気付かされた。
もしもそれで彼の心が移ろうのならば、自分はどうしたら良いのだろうか。
泣いて縋るのは柄ではないし、かと言って怒るのは違う気がしたし、一人でさめざめと泣き暮らす自分など想像もつかなかった。
人の心はどれだけ捕らえ、手に入れたと思っていたとしても縛る事は出来ない。
だからこそ怖いのだ。いつ揺らぎ移ろうか分からないからこそ、怖い。
そんな事、考える余裕もない位にマルコは愛してくれているのだが、ふとした瞬間にはこうして暗い思考に捕らわれる。
そうして今日も悶々とした思いに捕らわれようとしていたその瞬間。
「こんなところにいた!」
声がして振り返ればベイが駆け寄ってくるところだった。
まさか彼女が自分を追ってくるとは思わず、ぐるぐると考え込んでいた事を束の間忘れては驚きを露わにする。と同時に飲み物を取りに行くと言った手前、こんな所にいるのを見つかってしまった事を気まずく感じていると。
「ごめん。あたしアンタ達の事知らなくてさ。軽はずみな事言っちゃったね」
おもむろにの手を掴み、そう言うベイには目を丸くしたまま何を言ったらいいのか分からずにいる。
「あの場ですぐ言ってくれたら良かったのに!こんなところで一人で落ち込んでるなんてさ」
「え、いや、あの…」
彼女に悪気は無かったのだと分かってしまえば、居心地の悪い思いをするのはの方だ。
勝手に落ち込んで勝手にその場を退散して。彼女はせっかく話をしたいと来てくれたのに。
「マルコの事、いい男だとは思うけどさ。あたしは海賊だから人のモノを欲しがる事はあるけれど、家族のモノに手を出そうなんて思わないよ」
ベイがそう言葉を重ねれば、は船縁に腕を乗せてそこに顔を埋めた。
「なんか…私の方こそごめんなさい。…気を使わせてしまって…」
呻くようにそう言ったに、ベイは一度目を瞬かせそれから声を上げて笑った。
「アンタが謝る事じゃないじゃないか。アンタはマルコの女なんでしょう?もっと堂々としていればいいのに」
そうは言われても自信なんて持てなかった。別に可愛い女の子を羨ましく思うとか、自分が嫌いだとか言うわけではない。
じゃじゃ馬と呼ばれていた頃の性質などそう簡単に変えられるものでもないし、そんな自分でも愛していると言ってくれるのは他でもないマルコだ。
けれど、移ろう人の心を繋ぎとめておく方法などには思いつかなかった。
何かの拍子でマルコの心が移ろう可能性もあるのだと、気付いてしまった。
「ガキか私は…」
ぐるぐると考え込んで先程の台詞をもう一度零したに、ベイが目を丸くした。



気付いたら朝だった。
あの後。
自信が無いと零すを叱咤激励し始めたベイがヒートアップし、そのまま女同士の会話で盛り上がり。
場所を変えての部屋でお喋りを続けているうちにいつしか揃って眠ってしまっていた。
柔らかくふわふわとしたアイスブルーの髪がの腕に当たってくすぐったい。
まだ眠りの中にいるベイを起こさぬように注意しながらベッドから抜け出し、昨夜お互いに脱ぎ捨てた服を広い集めていると遠慮がちにドアがノックされた。
一応ベイが一緒なので彼女にしては珍しく部屋に鍵をかけていたのだ。
薄手の部屋着を着てはいたが、一応ベイに毛布をかけてやってから薄くドアを開いて覗けば、マルコが立っていた。
「あ、おはようマルコ」
「おはよう、じゃないだろい。お前、大丈夫なのか?」
を追って行ったベイもろとも二人の女が姿を消してしまい。彼女の部屋を尋ねてみればドアには鍵が掛けられているしで、色々と心配したのだと言われ。
「ああ、ごめん。大丈夫。ベイと一緒に寝てた」
そう答えればマルコは小さく苦笑した。女二人が姿を消した時はどうしようかと思ったが、いつの間にやら共に眠ってしまうような仲になったのならそれはそれでいい。
揺らいだその心はとりあえずは落ち着いたようだと分かったマルコは僅かに肩を竦めた。
それから彼女の頬に触れ、顔を寄せる。
、おれが欲しいと思ってる女はお前だけだ」
簡単に揺らいでんじゃねェよい、と続けその唇を塞ぐ。揺らぐ暇などないように、これでもかと自分に引き付けておく為に。
「寝起きに見せ付けてくれるじゃない、お二人さん」
不意に声がしてはハッとして若干無理矢理に彼から身を離し、マルコはそれに少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべた。
いつの間にか起き出して、が拾って椅子にかけておいた洋服を着込んだベイが、ニヤリとした笑みを浮かべてこちらを見ている。
「わ、私オヤジに報告書出してくるから!マルコ、ベイを甲板まで案内してあげて」
そう言いながら机の上に置いてあった報告書を慌てて掴み、彼女はあっと言う間に部屋を出て行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながらベイは肩を揺らす。
「どうしてが自信が無いって言うのか分かったよ。アンタに愛されすぎてるんだ」
他の男を知らないから、自分がどんなに魅力的なのか気付いていないのだ。と告げればマルコの眉が顰められる。
「アイツに自信を付けさせる為に他の男に口説かせろってのかい?冗談じゃねェよい」
「不死鳥は意外と独占欲が強いんだね。知らなかったよ」
甲板へと案内すると言うマルコの後ろを歩きながら、ベイは明るい声を上げて笑った。



20101108