別に天下が欲しかったわけではない。
この乱世に己の武が何処まで届くのかが知りたかっただけ。
そして何処までお前がついてきてくれるのか。
それが知りたかっただけなんだ。



共に、永遠に。




「奉先」
短く字だけを呼ぶ。
人中の呂布と呼ばれたその男に対して微塵の迷いも恐れも無くただ、字だけを短く呼ぶ、そんな彼女を呂布は甚く気に入っていた。
「どうした」
振り返る事はせず、呼ぶ声と同じように短く応えると、気配で彼女が隣に並んだのが分かった。
下ヒ城は凍えきっている。
城内には大量の水が入り込み、日常生活すらままならぬ。
兵の士気は皆無に等しい。
頭を垂れ重い足取りで曹操軍に投降して行く兵の一団を眼下には口を開く。
「兵が逃げて行くぞ。良いのか」
良いのかと訊きながら、その口調に咎める響きは無い。
「フン。逃げたい奴は勝手に逃げればいい。雑魚に興味は無い」
その言い様は強がりなどではなく、彼は本当にそう思っているのだと知っているから、は少しだけ困ったように笑った。
「奉先、ここは冷える。中へ行こう」
「ああ…」
ぽつぽつと残る二人だけの足跡がやけに寂しく見えた。



自室に戻った呂布は寝台に腰を降ろすとすぐに、伴ってきた彼女を抱きこんだ。
それはこの寒さ故か。それともまた別の思惑か。どちらでも無いしどちらでもあるかもしれない。と思いながらは呂布の厚い胸に凭れ掛かりゆっくりと目を閉じる。
「静かだな…」
城内に残る兵は既に三万を下回る。
この水責めで兵達は生きた心地もしないだろう。
楽しく声を上げる者などあろうはずもない。
「残る兵も少ないからな。…貴様も、」
何かを言いかけた呂布の口に指先で触れ、言葉を遮る。
「お前も逃げろ、なんて無粋な事は言うなよ奉先。私はお前と何処までも行くと決めた。この後に及んでお前の元を離れるなど、ありえぬ」
きっぱりと言い切る彼女を、呂布は複雑な表情で見つめた。
最期まで共に有ると言うその気持ちは嬉しいが彼女を死なせたくはない、とも思う。
「少し、疲れたか?奉先」
言葉を失っている呂布に苦笑して、は言った。
「…そうだな。…長い…ただひたすらに戦ってきた気がする」
只、己の武がどこまで通じるのか、それが知りたくて戦ってきた。
気付けば、己のものとなる軍を抱え、一城の主にまでなっていた。
「奉先、お前はいつでもこうして生きてきた。確かに、お前が最強だ」
そう微笑む彼女だけが、呂布を認めその強さを追い掛け、いつだって傍に居た。
「寝よう、奉先。次が最後の戦になろう。今は、眠って力を蓄えねばならぬ」
そう言われて、呂布は彼女の細身を抱きこんだまま寝台に身体を横たえる。
眠っている間に居なくなってしまうわけでもないだろうに、緩む気配の無い腕に、は小さく笑みを零した。



口から吐く息が白い。
寒さは厳しいが、身体は良く動く。
自分と同じように鎧に身を固める呂布を見つめて、は満足気に目を細めた。
後をついて行くと、人生の全てを捧げた最強の男は、確かにここにいる。
呂布と目が会うと、彼女は優しく微笑んだ。
「行こうか、奉先」
交わす言葉は少ないが、呂布は頷いた。
城門が開かれ、呂布と麾下の者が動き出す。
曹操の軍は大軍だ。見渡す限り一面、曹操の軍。
最期の戦に相応しいと、呂布は思う。
馬足が速くなり、軍の纏う気が荒く、士気が上がって行くのがわかる。
僅かに残った数少ない精鋭部隊の兵達には、勝ち目が無かろうとも死ぬつもりの者は一人としていない。
それが、最強を誇る呂布と、その軍だった。
曹操の本陣に向かって一直線に駆ける。
軍がぶつかるその瞬間に、呂布が静かに叫んだ。
「蹴散らせ、そして生き残れ。それが我が軍の勝利となる!」
次の瞬間、軍が散った。
呂布は曹操の本陣を駆け抜けながら己の背後に神経を集中させた。
彼女が黒い愛馬を駆ってぴたりとついてきているのが分かる。
他の麾下の者の行方はもう分からなかったが、その場で投降するも、最期まで戦うも、彼等の自由だと思った。
只彼女だけが己の後ろをついてくる、それだけで呂布は満足だった。
長く、戦いすぎたのだ。
もう、おしまいにしてもいいだろうと思う。
そして最期の時には彼女が今までと変わらぬように背後にいてくれるだけでいい。



は、珍しく祈っていた。
このまま、虚を突いたまま、曹操の本陣を駆け抜けられれば良いと。陣の向こう側までこのまま。
赤兎ならそれができると分かっていたが、それでも祈った。
群がる敵を獲物で薙ぎ払い道を開きながら一心に祈った。
戦場での死など最強を名乗る者には相応しくない。
最後まで生き残ってこそ、最強の男だ。
態勢を立て直し始めた敵が呂布の周りに一層と群がってきた時、初めては長い間その後ろだけを見つめてきた、最強の男の隣に並んだ。
「駆けろ奉先。お前に死は相応しくない!」
!」
驚いた呂布が声を上げる。
「惑うな奉先。私はお前の後をついてゆく」
そう言って剣先で赤兎の尻を叩くと、賢い彼の馬は彼女の意を悟ったかのように猛々しく嘶いた。
「人中の呂布、馬中の赤兎。お前達が確かに、最強だ」
そう微笑んだ彼女の顔は酷く美しく、呂布の目に焼き付けられる。
思わず手を伸ばしかけたその瞬間、赤兎はの意思を汲んだ様に足を更に速め、彼女の姿はあっと言う間に敵の波に飲み込まれ、そして、見えなくなった。



「張遼!お主のその武、我が軍で今まで以上に輝かせる事を生きる糧とせよ!」
高らかに発せられるその言葉に、張遼は驚いたように曹操を見上げ、そして咄嗟に隣の女へと視線を投げる。
視線が合って彼の意がわかり、は小さく首を左右に振った。
「私の求める最強の男はここにはいない。だから…お気遣いありがとう、張遼殿」
そう微笑むと張遼は唇を噛んでから顔を背けた。
己が仕えた主が自分の分身のように大切にしていた女だ。
呂布の右腕として動いていた己にも随分と親しくしてくれた。
そんな彼女の最期など見るに耐えないのだろう。
縄目を外された張遼がどこかへと連れて行かれるのを見送った曹操の視線が、へと注がれる。
「お主がか。女の身でありながらあの呂布と共に戦った…。なるほど、噂に違わず美しくもある。どうだ、お主も我が軍でその武を生かさぬか。お主のような美しい女子を処するには心が痛む」
どこまで本気で言っているものか分からないが、全く読めない男だ、と思いながらが口を開こうとした、その時。捕えられた呂軍が引っ立てられた広場に赤兎が乱入してきた。
制止しようとする者達を蹴散らしながら己に向かってまっすぐに進んでくる赤兎を見たとき、彼女は初めて曹操の前で取り乱した姿を見せた。
群がる敵を切り伏せ、捕らえられるその瞬間も、今まさに死を賜ろうとしたその直前まで静かで、冷静であった女が。
「赤兎!何故ここにいる!奉先はどうしたのだ!」
主を乗せていない赤兎が目の前にいる事に、戦慄が止まらなかった。
人馬一体であるはずの赤兎が主となる呂布を乗せていない。
それが一体どういう意味なのか。
「赤兎…!奉先は…!奉先はっ!!」
縛を受けながらも立ち上がり、赤兎に走り寄ろうとする彼女を、兵士達が取り押さえる。
歩調を緩め静かにの前に辿りついた赤兎は彼女に鼻先を寄せて、静かに嘶いた。
一連の騒動を面白そうに眺めていた曹操が苦笑する。
「その様に取り乱す程に呂布が愛しいか」
「私が愛したのは最強の男だけ。最早この世に未練はありませぬ。早く殺しなさい、曹操!」
彼女がそう叫ぶのを曹操はただじっと見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「そう早まるものではない。呂布は惜しくも先の戦いで捕り損ねた。お主が身を挺して囮を務めた所為でな」
その言葉に、は全身の力が抜けて行くのを感じた。
生きている。
「赤兎…お前はそれを知らせにきてくれたのだな…ありがとう」
は落ち着きを取り戻し、微笑みを浮かべて赤兎を見つめる。
赤兎は一度鼻を鳴らして、後は大人しく兵士達にひかれていった。
最期の瞬間に呂布の無事が分かっただけで彼女は満足だった。
「お見苦しいところをお見せしました…」
謝罪の言葉を述べ曹操に向かって頭を下げるその姿は、首を差し出しているようにも見えた。
よ、もう一度問おう。我が軍に下る気は無いか。生きて、呂布を説得し、我が軍に二人が加われば怖いものは無いのだがな」
国として、軍として、今一番強いのは曹操だろうとは思っている。実際に対峙したからこそ、そう思うのだ。
その曹操の軍に最強の男が加わる。
それも面白いと思った事が無かったわけではない。
だが、呂布はそれを望んでいないだろう。
彼が求めているのは国でも最強の軍でも無かった。
ただ、己の武のみで何処まで行けるのか、それが知りたかっただけなのだ。
「曹操殿…私達は長く戦いすぎました。奉先も赤兎を手放し、私ももう二度と剣を取る事は無いでしょう。お諦め下さい。私達にはもう、戦う力は残っていないのです」
曹操が小さく溜息をついたのが分かった。
生きて、呂布に再び会うのも良いかと思ったが、最後の下ヒでも散々曹操の手を煩わせた己がこの後に及んで見逃してもらえるとも思っていなかった。
特に最後に本陣に駆け込んだ呂布と二人で相当の数の親衛隊を斬り捨てているのだ。
だから、最期の時に、呂布の無事が分かっただけでも満足だった。
「さあ、お斬り下さい。最早迷いはありませぬ。できる事ならば曹操殿、奉先の事はもうそっとしておいてくださいませ」
は目を閉じた。
目を閉じれば浮かんでくるのは呂布の姿。
赤兎に跨り、人中の呂布と恐れられた最強の男。
「奉先…お前の後をついて行けた事が、私の人生の全ての誇りだ」
聞こえるとも無い呂布に向かっては呟いた。



* * *



あれから一年が過ぎようとしていた。
空から白いものが舞い始めたのに気付いて、呂布はふと空を見上げる。
下ヒの戦いで無事に生き延びた彼は、匈奴の土地に腰を落ち着けていた。
故郷も近いこの地で、今は静かに暮らしている。
愛用していた方天戟はの姿を見失ったその瞬間に手放した。
赤兎も、彼女を探して来いと放ったがそのまま姿を見ない。
の最期の願いが生き延びる事だった。
それが最強の男だと。最期まで生き延びてこそ最強の男だと。
だが、呂布は時々後悔の念に捕らわれる。
あの時、彼女と共にあの場に残り、共に最期を迎えた方が良かったのではないかと。
遠く匈奴の土地にも、曹操の事は伝わってくる。
今やその勢力を拡大させ、劉備や孫策らと覇道を争っているとか。
だが、の消息は何時までも知れなかった。
生きているのか、死んでいるのかすら分からなかった。
「俺の後を…必ず追うと言ったではないか…」
拳を握りしめた呂布の目に大粒の雪が入り、それは溶けて流れて行った。



いつまでそうして佇んでいたのだろうか。
雪は何時しか吹雪になり、辺りにも積もり始め、己の肩や頭にも雪が積もるまで、呂布はそうして空を見上げていた。
ふと気付けば、誰かが近付いてくる気配。
さくさく、ぎゅっぎゅと雪を踏みしめて、何者かは確実に自分の方に向かってくる。
よもやこのような所まで曹操の手が伸びようとは思っていなかったが、呂布は微かに身構える。
「奉先か?」
次の瞬間聞こえた声に、呂布は瞠目した。
その声は、最も聞きたかったもの。
…!?」
吹雪が微かに弱くなったその瞬間に、確かにそこに彼女の姿があった。
もう既に鎧は身に着けておらず、普段着に外套を身に纏ってはいるが、彼女は変わらぬ姿でそこにいた。
っ!!」
名前を呼んでなりふり構わず彼女に駆け寄り、その身体を両腕に抱き締める。
「こんな遠い地にいたのか…探し出すのに時間がかかったではないか」
腕の中で苦笑しながらそう告げるを、呂布は何も言わずに抱き締めていた。
「生きていたのか…」
「忘れたのか?奉先、お前の後をついていくと、そう言った」
「良く無事に…」
「曹操殿にな…『只の女子に向ける刃など無い』と言われてな…放逐された」
そう笑うの姿を確かめるように、呂布は両手で彼女の両の頬を包み、その顔をじっと覗き込む。
紛れもない、彼女の姿。彼女の顔、声。
最も愛しい、大切な女。
「会いたかったぞ…」
「私もだ、奉先」
そう呟いてどちらからとも無く唇を寄せた。
互いの存在を、生きている事を確かめるような長い口付けの後、彼女は言う。
「良くぞここまで生き延びて…お前が確かに最強の男だよ、奉先。私はお前についていけて幸せだ」
「もう二度と、離れるな。これからは俺の後ではない、隣にいろ」
そう言ってもう一度呂布はに口付けた。



共に死線をくぐり抜け再会した二人。
奇しくもその日は現代で言うところの聖夜であったと言う。



クリスマス企画でした。
20150124加筆修正