身を切るほど空気の冷たい夜。

城壁の上に佇む彼女を見つけた時、その寒さが凛とした彼女の空気と相まって。

なんとも美しく、そして彼女に相応しく。




夜に咲く怜悧の華




日が落ちてから静かに落ちてきた白い粒は、少しずつではあるがそれでも着実に地面に根を生やし、己の領域を広げつつあった。
人が足を下ろせばその微かな熱で、まだ消えいく程度のものではあったが。
「大分冷えて参りましたな」
そう声をかけると、さも今その存在に気付いたと言わんばかりの表情で彼女は振り返った。
「張遼殿…」
名前を紡ぐ彼女の唇は色を失い、その肩や剥き出しの髪にも微かに白いものを積もらせている。
一体いつからこの場に佇んでいたのかと、張遼は眉をひそめながらそれを払ってやった。
「風邪を召されますぞ、このような夜にこのような場所に…一体どれほどいたのですかな?」
だが彼女はその問い掛けには応えず、雪を払ってくれたその事に対して礼を述べただけだった。
「何をそんなに熱心にご覧になっていたのか?」
隣に並んで当たりを見回してみるものの、目に入るのは静まりきった城内と、同じように静まりきった城下のみ。
このような雪の降る夜には、誰もが室に篭り暖を取っているのであろう。
なのに、この方ときたら。
「空です。空を…見ておりました」
そう言われて同じように空を振り仰いで見れば、次から次へと一体何処から沸いてくるのだろうか。真っ黒な空から、白いものが落ちてくる。
雪が降っているのだから星など見えるはずも無く、まさかこの様な夜に星を読んでいたとも思えず、
「一体…どこから沸いてくるのでしょうね、この雪は」
咄嗟に口をついた言葉がそれであった。
口にしてから、軍師殿に対してなんて愚問なのだろう、と張遼は思った。
女の身でありながら、その鬼謀、そして鬼謀ばかりではなく武力も持ち合わせる彼女が軍師としてこの陣営に招かれたのは、当然の事。
才を愛し、欲する曹操が彼女を放っておくはずも無く、彼が旗揚げの時から彼の片腕として働いてきた。
女の癖に、と始めは思ったものだが、その力を目の当たりにした時、張遼はその考えを捨てた。
軍師の幕舎に忍び込んだ間者をいとも簡単に切って捨てたその武は、呂布仕込みのものだと言う。
かつて呂布に仕えていた事のある張遼も知らない事実だった。
とても女性とは思えない…といっては失礼に当たるかも知れないが、張遼は彼女のその才から目が離せなかった。
呂布を武の師と仰ぎ、その鬼謀をめぐらせて、彼女は曹操に何を捧げようとしているのか。
「私も…同じ事を考えておりました」
ようやく、張遼の言葉に対する返事に値するような言葉を溢した彼女を見やれば、その目は尚も空に向けられている。
「民に似ている、と思いませんか?張遼殿。誰が知るとも無く増えて行き、そして微かに、でも着実に大地に根を下ろして行く。されど、それは脆くいとも簡単に踏み躙られてしまう」
そう言って彼女は張遼の来た方を指差す。
そこには、張遼の足跡がくっきりと。
まだ微かにしか積もっていない雪は、張遼の足跡を覆い隠す事も出来ず、その痕跡をはっきりと残したまま。
なるほど、と納得しながらも張遼は彼女の伸ばした指先の方が気にかかった。
女性らしい柔らかな手、その先から伸びるほっそりとした指先に目を止めれば爪は既に紫にまで変色していた。
自分の足跡すら残さぬような時間からここにいたのだと、爪の色も、足跡が無い事も、肩や髪に雪がかかっていた事も、全てがそれを如実に示している。
「軍師殿、民を思うのもよろしいですが、まずはご自分のお体を思って頂きたいものですな」
その手を取れば、まるで凍っているかのように冷たい。
彼女自身には、まだ手を握られた事も感じていないに違いない。
「まるで氷の如くですな。お体に障ったらいかがなされるおつもりか…。既にその身は貴女一人のものではないのですぞ、殿」
最後の方は囁くようにして、張遼はその身を己の外套に包むようにして抱き込んだ。
「ちょ、張遼殿!」
男装などして可愛らしい女性をいつも侍らせていたというこの変わり者の軍師は、男の肌には慣れていない。
不意に名を呼ばれた事と抱き込まれたのが相まって、彼女は狼狽する。
「分かりました、もう部屋に戻ります故、どうか離して…」
そう言って張遼の胸を押し返そうとするが、凍えた手と身体では張遼のその力に敵う事もできず、ただ彼の胸の中でもがくばかり。
「その可愛らしさを、男装などする事で誰の目にも触れさせれてこなかったのは、誠にありがたい事ですな」
そう言ってやると、彼女は顔を耳まで朱に染めて張遼を見上げた。
「何をおっしゃっいます…」
戸惑いを映したその瞳に、張遼は微かに情欲にも似た想いを抱かされ、その瞳に誘われるままに唇を寄せた。
まるで死人のように冷たい…その唇に唇で触れて、張遼は思う。
「全くもって冷え切っておられる」
微か、唇を解放してそう言い放ち、再びその唇を塞ぐ。
そうする事で、少しでも自分の熱が伝われば良いと。
何度も何度も、角度を変えては唇を重ね、熱を伝える。
女性に囲まれて暮らしていたとは言え、その気があったわけではないは、初めて(おそらく初めてであろう)異性から受ける口付けに、既に体中の力を失い、もはや張遼にしがみ付く様にして立っているのがやっと。
「少しは暖かくなりましたかな?」
そう言いながら彼女の腰を抱いて支えてやると、男装の麗人は誰も見た事が無いくらい顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「多くの大事をご覧になっていても、身近に潜む曲者は見抜けなかったようですな、軍師殿」
意地悪くそう告げれば、腕の中の軍師は微かに身じろぎ、馬鹿者、と呟く。
子供の様な悪態に苦笑しつつ、張遼は満たされていた。
手に入れた、のだと思う。
その武を愛し仕えた呂布の武を濃く受け継ぎ、その美貌を周りに花を置く事で紛らわせ、その鬼謀を主の為に惜しげも無く奮う。
この変わり者の軍師に、気付けば惹かれていた。
目が離せない。
身を切るほどに冷たい夜に。
城壁の上に佇む彼女を見つけた時、その寒さが凛とした彼女の空気と相まって。
なんとも美しく、そして彼女に相応しく。
奪ってしまいたいと、切に願った。



「近いうちに、私の役目は終わるでしょう」
暫くして、落ち着きを取り戻したのか、麗しの軍師は口を開いた。
「間もなく世は曹操様の下に治められるでしょう。私はそういう戦をしてきたつもりです。世が統一されれば私の役目は終わり。後は程c殿や荀ケ殿にお任せすれば良い」
「役目が終わったら、貴女はどうなされるおつもりか」
その言葉に微か不安を感じて、張遼は彼女の腰を抱く腕に力を込めて尋ねた。
手放す気は更々ないが、その様な事を言われると不安になる。
「分かりませぬ…その時は…」
「その時は…私の傍で今度は、貴女自身の花を咲かせて頂きたいものですな。私の為に」
そう言ってやると、軍師は三度顔に朱を浮かべて、それでも小さく呟いた。
「それも…良いかも知れぬ」
と。
その言葉に満足した張遼がふと、空を見上げれば先刻よりも雪の量が増えてきている。
せっかく暖めた彼女の指先がまた冷たくなり始めていると知った張遼は少々人の悪い笑みを浮かべて言った。
「また冷えてきたようですな、軍師殿。私の部屋で暖めて差し上げよう」
言うが否や、その身体を抱え上げる。
先程、張遼がつけてきた足跡は既に見る影も無く新たな雪に埋もれている。
それでいい。と張遼は思う。
民が強く、その根を下ろす大地に、一輪、強く美しい華が咲く。
それだけの事。あとは何も変わらない。
たくさんの種を蒔いたその華は、次は自分の傍で美しく咲き誇ることだろう。
「張遼殿!自分の部屋でゆっくり暖を取ります故、降ろして…!」
己の室に向かい始めた張遼に、彼女は慌てて身を捩るが、張遼はそれを許さない。
「ふむ。殿は自室で愛でられるがお好みか。それもよろしかろう」
そう言って足を彼女の室へ向けるだけである。
困り果てた表情で、この状況をどうにか打破しようと持ち前の鬼謀を奮おうとしている軍師に、張遼は微笑んでそっと告げた。
「愛しておりますぞ、軍師殿」
「…順序が逆です…張遼殿」
そう言って己の肩に赤く染まった顔を隠してしまった愛しの軍師殿に、張遼はそっと唇を寄せ。



こうして雪の降る夜に結ばれた二人。
奇しくもその日は現代で言うところの聖夜であったと言う。



クリスマス企画でした。
20150201加筆修正