何度も訪れる朝が酷く切なかった。
失ったものは確かにあるのに済ました顔で登る太陽が疎ましかった。
けれど、まだそこに生きている者があったから。



夜明け前




泣き疲れてそのまま眠りについた彼女は、だがしっかりと彼の服を握り締めたままで、マルコは一度様子を見に来たナースにこのままここで寝ると告げた。
狭いベッドに二人、身を寄せ合うようにして転がればその温かさに誘われてマルコも直ぐに眠りに落ちる。
翌朝、先に目が覚めたのはだった。
眠りに落ちた後も彼がずっと傍にいてくれた事に笑みを浮かべ、そっとベッドを抜け出す。
真っ先に向かった先はナース達に割り当てられた部屋だった。
昔から彼女達の朝は早かったから、誰か一人くらいは起きているだろうと小さくノックして静かにドアを開ければ、やはりナース長のエルザが既に起きていて身支度を整えているところだった。
顔を見せたに少し驚いたエルザが直ぐに傍に寄って来て、まだ眠っている同僚に遠慮して小さな声で尋ねてくる。
「どうしたの。どこか痛む?」
昨日まで眠り続けていた彼女の容態に変化があったのかと心配するエルザに首を横に振ってから、同じように小さな声で言う。
「エルザ、ちょっとお願いがあるの」
それを告げるとエルザは相当に驚いた顔をしてその顔を覗き込んだ。
「本当にいいの?」
もう一度確認するように問いかけるエルザに深く、一つ頷いた。



辺りはまだ薄暗く、だがはランプも持たずにここへやって来た。
小高い丘の上、墓に突き立てられたオヤジが愛用していた武器に絡められたマント。
それだけで彼がそこにいるような気がするのは何故だろうか。
大きなそのマントはそのまま彼のとてつもなく広かった背中を思い出させる。

ただ本能の赴くままに海へ飛び出た何も知らなかった小娘を拾って、家族と呼んでくれたオヤジ。

その誇りを背負った事を告げると、若い女が肌に傷なんか入れるんじゃねェ。と言いながらもとても嬉しそうに笑ってくれたオヤジ。

マルコへの思いを持て余して泣いた娘の背を、何も言わずに優しく撫で続けてくれていたオヤジ。

そして…。

孫の顔が見たいと、マルコとの事を喜んでくれたオヤジ。

「オヤジ、ごめんね。孫の顔、見せてあげられなくてごめんね」
じわりと滲む視界を、だが一人では泣かないとマルコと約束した事を思い出し、手の甲で拭う。
「私はまだ甘ったれだから…私の一部をオヤジのところに残していくの、許してね」
たくさんの華が供えられた石碑の上に小さな小箱を置く。
象牙のような素材で作られたその小箱はいつぞや抜け落ちた彼女の角で作った物だ。その中には今しがたここに来る前に切り落としてきた彼女の燃え盛るように赤い髪が納められている。
それから彼女は隣の墓へ歩み寄り、石碑に一つ唇を落とす。
「助けてあげられなくてごめんね。…エースはとっても可愛い弟だったよ」
白ひげの船の中では比較的若い方に入る彼女よりも更に若かったエースがやってきてから、にも弟が出来たようでとても嬉しかったのだ。
豪快な食べっぷりも、弟の事を話すと止まらなくなるところも、時々度が過ぎるやんちゃぶりも、可愛くて、愛しくて仕方がなかった。
いつまでもこの場にいて、二人の事を想っていたかった。けれどそういうわけにもいかない。
これ以上ここにいると矢張り涙が溢れてきてしまいそうで。は後ろ髪を引かれる思いで二人の墓石に背を向ける。
愛していた。心の底から愛していた。と胸の奥で告げながら、口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうで奥歯を噛みしめてただひたすらに船への道を歩いた。
船の上ではマルコが彼女を待ち構えていた。
また一人で泣いているのではないかと心配そうな表情を浮かべていた彼は、だがの姿を確認すると驚きの表情を見せてふわりとその両手を青い翼に変え、彼女の元に降りて来る。
「いつの間に切ったんだよい」
伸ばされた手がそっと彼女の首を撫でる。
背の半ば程まであった真っ赤な髪は、今は首が露わになる位に短くなっていた。
「起きてから直ぐに。エルザに切ってもらったの」
全ての事を忘れたいワケではない。けれど一つのけじめの意味を込めて今まで伸ばし放題だった髪を切ったのだと。
「おかしい?」
「いや、短いのも似合ってるよい」
随分と風通しの良くなった首筋を撫でていたその手がゆっくりと引かれ、の手を取る。
「隊長集めてこれから会議だ。お前も来れるな?」
まだ互いに身体に包帯を巻いてはいる。その身にも心にも傷は残ったままだが、いつまでもこのままではいられない。
「行くよ」
と頷いた彼女の手を引いたまま、マルコは船室へと戻った。



久し振りに顔を合わせた彼等の表情が浮かないのは仕方のない事だ。
自分だって沈んだ顔をしているのだろうとは思う。
二週間ぶりに目を覚ました彼女にビスタもジョズも優しく声を掛けてくれた。
コックが気を利かせて淹れてきてくれたのは甘めのカフェラテで、疲れきった心身にその甘さが染み渡る。
「まだ皆、色々としんどいとは思うが…」
そう前置きしていつものように仕切り始めたマルコに隊長達の視線が集まる。
傘下の海賊達はそれぞれの仲間を率いてまた海へと戻って行ったが、まだ白ひげ海賊団はこの島に留まったままだ。
いつまでもこのままでいるわけにも行かない。
失ってしまった船の事、白ひげの支配下にあった島の事。次から次へと問題は山積みで、感傷に浸る暇も無いと苦笑したのはイゾウだ。
「それから、ティーチの事も、よ」
その名を口にしたのはで、驚いたような表情がいくつも向けられる。
サッチの命を奪ったのも、エースの身柄を海軍に引き渡したのも、オヤジを最期まで煩わせたのも、全てあの男だ。
思い出すのも苦しくなるようなその男の名を、それでも口にした彼女の強さに男達は小さく笑みを浮かべた。
「厄介な男だぞ、アイツは」
ビスタがそう唸るとそれでも、とが続く。
「私達の誇りにかけてもあの男は追い詰めなきゃいけない」
オヤジの誇りを、その信念を、息子と呼んで愛した心を踏みにじった償いは必ずさせると。
「こういう時は女の方が強えなァ」
そう言って笑ったラクヨウの言葉に、その場の全員がようやく小さな笑みを浮かべた。
ある程度方針が決まったところで会議をお終いにする、とマルコが告げると。
「ああ、それから」
思い出したようにイゾウが口を開いた。
「これはおれ達だけで話し合ったんだが」
その言葉に首を傾げたのはマルコとのみ。
「お前達、そろそろ身を固めたらどうだ」
海賊には似合わない言葉だが、と言いながらそう告げるビスタに二人とも呆気に取られた表情になる。
「こんな時にする話かよい…」
マルコが僅かに顔を顰めればイゾウが更に言い募る。
「こんな時、だからこそだ。オヤジを失ったこの船を纏めるのはマルコ、お前が一番だろう。それを支えるのは、お前の役目だよ」
話を振られての肩がびくりと揺れる。
思いもよらない言葉に頭がなかなかついて行かない。
「さっさと本物の『家族』になっちまえって事だ」
葉巻を咥えたままフォッサまでもが言うとマルコは小さく溜息をついた。
「その話は後でコイツとゆっくりするよい。とりあえず解散だ」
半ば強制的に追い出され、ビスタ達は苦笑しながら部屋を後にする。
呆けたままで取り残されたの肩を叩くと面白いくらいに大げさにその身が揺れ、マルコは思わず苦笑いを浮かべた。



「大事な話しがしてェ。今時間いいかい」
シャワーを浴びて部屋着に着替え後は寝るだけと言った時間に、ドアがノックされ返事を返せば訪れたのはマルコだった。
彼女の顔を真っ直ぐに見据えたマルコはいつにも増して真剣な顔をしていたから、もまだ本調子では無かったが彼を追い返すような事はしなかった。
モビーディック号とは違って随分と簡素になったベッドに腰を降ろすと彼女の手をやんわりと引き、その身を己の膝の上に乗せる。
向かい合ったその身体を抱き締めながら、マルコがの肩に頭を預ければ、同じように彼女もまた彼の肩に頭をつけた。
「どうしたの?」
珍しく甘えるような、それでいてどこか焦燥感すら感じるようなその行動に問いかける。
暫く言葉を探すようにゆるゆると腰の辺りを撫でていた手に不意に力が篭ったかと思うと、耳元で小さな言葉が聞こえた。
「お前、いつまで薬飲んでるつもりだい?」
その問いが何を指しているのか暫く考えた後、思い当たった事にの身体がびくりと反応する。
驚いて顔を上げるを真面目な顔で覗き込んでマルコは彼女の返事を待つ。
「知ってたの…?」
「そりゃあ、あれだけお前を抱いてんのに出来ねェ方がおかしいだろい」
どこか身体が悪いのではないかと心配してそれとなくナースに尋ねてみれば、少し躊躇った後に彼女が避妊薬を服用している事を、エルザが教えてくれたのだと。
「おれの子供が出来るのはイヤか?」
背中を押され再びマルコの肩に頭を押し付けられる。逃さないとでも言うように腰に回った手に力が込められた。
「違うの…!そういうわけじゃない」
芯より惚れ込んだ男の子供が欲しくない筈などない。その顔をオヤジにだって見せてあげたかった。
だが、まだその時期ではないと思い続けて結局今まで来てしまったのだ。
船を出る任務の多かった事と、そしてサッチやエースの件が重なった事で今までその機会を失ってしまっただけだと告げると、明らかにほっとしたように彼の身体から力が抜けるのが分かった。
「それなら良かったよい」
小さく安堵の溜息を漏らしたマルコが少しだけ身体を離して彼女の頬に触れ、その唇にキスを落とす。
それから「、」と名前を呼び。
「今すぐにとは言わねェ。だが全てが終わってからとも言えねェ。だけど…よい」
一度言い淀んで、だが次の瞬間にははっきりと。
「おれの子を産んでくれねェか」
シャンクスに言われたからでも、仲間達に背を押されたからでもない。だがどうしても、彼女の全てが。この先の彼女の人生全てが無償に欲しかった。
彼女にだけ見せる優しい眼差しで彼女を覗き込みながら、真っ直ぐに告げられた想いにの心が震える。
「…分かった」
溢れる想いに詰まる胸に一度深呼吸をして空気を取り入れ、漸くただ一言だけを返す。
それだけでも十分だった。
もう一度その身体を抱き締め、その暖かさを確かめる。
ここには確かに、今は亡き者達が愛した魂が生きている。
夜明けはきっと訪れる。



出会って十年。付き合うようになって七年でようやくプロポーズ。
個人的な意見ですが海賊が「結婚してください」ってのは違和感があるのでやはり「子供産め」の方がしっくり来る気がします。
20101125