All in this tiny world
このちっぽけな世界の全て
第三話
我侭だとは分かってはいたが、今は帰りたくないと、は迎えに来たマルコにもう一度告げた。
何一つとして心が定まらないまま家に帰ってしまえば、もう後は流されるままに赤髪の元へと行く事になるだろうとどこかで解っていた。
彼女が意地でも帰る気がないと予想はしていたのだろうか、マルコは小さく肩を竦めただけで、代わりに近くのホテルへと場所を移す事を勧めて来た。
春が近いとは言っても、まだ夜は冷える。海風は更に冷たさを増していて、お互いに身体は冷え切っていた。
せめて暖かいところへ場所を移せと告げるマルコに、もそれ以上は反抗せず、大人しく頷いて車へと向かう。
「お前が見つかったって事だけは連絡させてもらうよい」
そう言ったマルコは既に携帯のボタンを押していて、彼がサッチか、はたまた親父に連絡をしている間に、は助手席へと滑り込んだ。
通話を終えたマルコが運転席に乗り込むと、互いに口を開く事もなく車は近くに見えているホテルへと向かう。
夜景の光がとても綺麗だったが、それに見とれる暇も無く車はホテルの入り口へと横付けされた。
明らかに只者では無い雰囲気を放つ高級車を目にしたボーイが、慌てて車に駆け寄って来て助手席のドアを開ける。
の手荷物は小さめのショルダーバッグだけだったから、ボーイに預けるまでも無い。丁重にエスコートを断った彼女に頭を下げたボーイに、マルコが車のキーを預けるのを見て、はホテルの入り口を通る。
「部屋、取ってくるからそこで待ってろよい」
マルコがレセプションへと向かうのを見送って、は広いロビーのなるべく人のいない場所を見つけて、柔らかなソファに腰を降ろした。
程なくして戻ってきたマルコが取った部屋は、もちろん最上階に近い高級な部屋だ。
彼のスーツにつけられた組の代紋に気付いたのか、オーナーと思われる男が奥から出てきて、二人は馬鹿丁寧に部屋へと案内された。
部屋に入るなり大きな溜息と共にネクタイを緩めたマルコの姿に、思わず目を奪われたのは仕方の無い事だろう。
そうして彼女は今、想いを寄せる男と二人きりなのだと改めて実感した。
だがもちろん、今の状況に彼がなんの感情も抱いていないのは解っている。
その証拠に彼は部屋に置かれたホテルの案内に手を伸ばして、レストランかルームサービスを確認していた。
「とりあえず飯にでもするかい?」
尋ねられて首を横に振りかけたのをなんとか押し留める。今の状況では色々と、食べ物が喉を通るとは思えなかったが、彼女が食事をしなければきっとマルコだって食べないだろうし、彼を自分に付き合わせるのは申し訳なかったので、軽めにサラダとスープ、それにデザートと紅茶を頼む事にした。
レストランまで行く気分にはなれなかったので、ルームサービスで構わないと告げると手早くマルコがそれを手配する。
程なくしてボーイが部屋にやってきてテーブルをセッティングし、次いで料理を乗せたワゴンを押しながらコックが入ってくる。
彼女と殆ど同じものを頼んだマルコと向かい合って食事をすると言うのは初めての事で、なんだか落ち着かない気持ちでは食事を済ませた。直々にコックが出向いただけあって、どれもこれもシンプルながら味の方は一級品であっただろうに、それを感じる余裕などなかった。
再びレセプションに電話をかけて食事の後片付けをさせたマルコが自らバスルームに向かい、風呂の支度をしてくれたのを見て、やはり彼女はいつまでも彼にとって庇護の対象でしかないのだろうと思う。
やはりあの赤髪との話を受ける事が、皆にとって良い道なのだと確信した。



湯をたっぷりと張った浴槽に身体を浸してしまえば、冷えた身体が温まるのが心地良くて、このまま溶けるようにいなくなってしまえたらいいのにとすら思った。
ここを出てしまえば。一晩寝て、起きて、家に戻ってしまえば。
色々な考えが止め処なく頭を巡るが、何一つ自分を納得させる事は出来ない。
それならば。とは大きく息を吐いた。
「マルコ」
浴室から出てきた彼女はバスタオル一枚しか纏っておらず、マルコははっきりと眉を顰めた。
「なんて格好してるんだよい。ちゃんとバスローブがあっただろい」
上質な、ふわふわとしたバスローブは確かに用意されていたが、今のにはそんな物は必要なかった。
多分。
マルコが迎えに来ると言った時から心のどこかで決心していたのだと思う。
この身を。この夜だけでもいい。他の男のモノになってしまう前に、マルコに捧げてしまおうと。
例えそれが彼女に大きな傷を残す事になったとしても構わないと。
「いらないわ。だって、マルコに抱いて欲しいんだもの」
「やめろよい。そういう冗談は」
素早く自分のジャケットを脱いだマルコが、それをの肩にかけようとするその手を掴んで、それを拒否する。
「あたしが冗談でこんな事を言うと思っているの?あたしはね、嫌なのよ。惚れた男を知らずに他の男のモノになるなんて、絶対に、嫌」
「他の男…?」
訝しげに問い返したその言葉に、矢張り彼は何も知らなかったのだと思い知る。
「赤髪から縁談の話が来ているのよ。あたしももうすぐ、二十歳になるから」
だから、と言葉を続ける。
「マルコには迷惑かけないわ。親父にも、赤髪にも何も言わない。だから、一度だけでいいから抱いて欲しいの」
「馬鹿な事を、言うんじゃねェよい」
だがマルコはその身体に手を伸ばそうとはしない。脱いだジャケットをしっかりと握り締めたまま、軽く目を伏せる男に、は唇を噛む。
「あたしが嫌い?あたしの身体じゃ気に入らない?」
「そう言う事じゃねェ、自分を卑下するのはよせよい」
「じゃああたしを抱くのが怖い?あたしが親父の娘だから?」
どんなに焦がれても手に入りそうもないその事実に、の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。
「…こんな事言っても言い訳にしか聞こえねェだろうが…。傷つけたくないんだよい。お前を」
「ッ…!もう遅いのよ…!だってあたしはマルコへの想いで、もうボロボロで…もう、一歩だって歩けないのよ!」
いつだって、どんなに背伸びをしてみたって届く事は無かった。
にはいつだってその背を向けていて、彼の顔が向くのは親父にばかり。
手を伸ばしてみたって触れる事すら許してもらえなかったその存在に。
諦められたらどんなに楽だったか。いっそ親父の娘じゃなかったらとどんなに思ったか。
親父の事は愛しているし、この血を厭った事は無かったけれどただ唯一、彼の事だけでは別だった。
一家の娘として存在する彼女と、親父と呼ぶ男と盃を交わした者としての一線をきっちりと引く彼の態度にどれだけ傷ついた事か。
焦がれて焦がれて、手を伸ばす事も疲れてしまって。
背伸びをし続けた脚は痺れてしまって。
もう一歩だって歩き出せない。
イメージ的には横浜のあの辺とコンチ●ンタルホテルです。
次は裏になりますので一話分、話が飛びます。ご了承ください。
[2014年 08月 19日]