All in this tiny world
このちっぽけな世界の全て
第五話
胡乱とした意識がゆっくりと覚醒して、目を開ければ部屋はすでにやんわりとした明るさに包まれていた。
気だるい身体を起こしてあたりを見回せば、先に目を覚ましていたらしいマルコがテーブルで新聞を広げている。彼は既にきっちりとスーツを着込んだ一糸乱れぬいつもの姿で、昨夜の事はまるで夢の如く、その表情にはなんの動揺も感情も見受けられない。
袖を通されただけのバスローブが自分の身体に纏わりついていて、只それだけが昨夜の事を思い出させる唯一の証拠のようだった。
「起きたかい?」
尋ねられて、は声を発する事なく頷いた。
互いに余計な事は訊かないし、言わない。今更何を言えと言うのだ。言い訳か、謝罪か、それとも愛の言葉か。だがそれでこれからの顛末に変化が起こるわけでもない。
これが最初で最後。ただの一度きりだと決めた覚悟を覆すつもりは、彼女には無い。
後悔はしていない、筈だ。
数ヶ月か、早ければ数日の内に他の男のものになるその身に、一度だけだとしてもマルコを刻み付けられた事を後悔はしていない。
ただ、肌を重ねた後ですらもマルコになんの感慨もなさそうに見える事は、酷く切なかった。結局のところどれだけ時間をかけてみたところで、彼にとって自分は白ひげの娘でありそれ以上の何者にもなる事は無いと言う事実を再確認しただけだ。
幼い頃からずっと、焦がれていたのに。長い間傍にあったその存在が、世界の全てだったのに。
「バスタブに湯を張ってあるから入って来い。急がなくていい。落ち着いたら帰るよい」
沈黙に耐え切れなくなったらしいマルコが極力優しい声でそう促すのに、は大人しく従った。
「マルコ…嫌な役目をさせてごめんなさい」
静かな声でそう告げて、彼の反応を見る事もせずに浴室へと滑り込む。
急がなくてはいいと言われたが、これ以上二人きりでいるのは辛くて手早く身体を洗うとさっさと風呂を上がる。
昨夜、バスローブすら着ずに浴室を出た彼女の、脱ぎ捨てた洋服は脱衣所の籠の中に変わらぬままで置いてあり、それを着て部屋に戻る。
「帰るわ、マルコ」
もう振り返る事は出来ないと。決心が鈍らないうちにこの部屋を出て行ってしまいたかった。



マルコの運転で家に戻ったは、そのままその足で親父の元へと向かった。
途中、廊下ですれ違ったサッチに「心配をかけてごめんなさい」と声をかけた彼女の表情が、この一晩でぐっと大人びたように見えサッチは少しだけ眉を潜める。
それは、色気も多分に含んでいたが、何よりその年に似つかわしくない憂いと決意を秘めているようで、彼女の背中を見送ったサッチは直ぐにマルコを探して踵を返す。
あちこちと探し回るまでも無く、玄関へと向かえば車を駐車場へと回してきたのであろう彼が中へと上がってくるところだった。
「お前、お嬢と何かあっただろう?」
滅多に表情を崩す事のないマルコの、その僅かな変化を見抜いたのはサッチだからか、長年の付き合いの為せる業か。
兎に角、マルコの表情に違和感を感じたサッチはそれをいともあっさりと口にした。
「戻って早々テメェに捕まるなんてツイてねェよい」
舌打ちと共にそう言い捨てたマルコの腕を掴み、サッチは有無を言わせずに人のいない部屋へと引っ張り込む。
「何があったんだ?」
「テメェに言う義理はねェよい」
ふいと顔を背けるその仕草に、お嬢とこの男の間に何かがあった事は確かなのだとサッチの勘が告げる。
「まさか、手ェ出したんじゃねェだろうな」
それはカマをかけると言うよりは確信に近いもので、マルコがもう一度舌打ちをしたのは肯定にも等しい。
「マジかよ…。お前、お嬢だぞ。分かってんのか?」
その言葉を無視してポケットから煙草を取り出し火をつけるマルコに、少しだけイラつきを見せながらサッチは言い募る。
「お嬢は、お前に惚れてたんだぞ。それなのに赤髪から縁談なんてもちかけられて…そんなお嬢をお前、」
「それ以上言うんじゃねェ」
紫煙を吐き出した男の表情は、はっきりと、何も言いたく無いと語っていた。



「心配をかけて、ごめんなさい」
部屋に入るなりそう頭を下げた娘を、白ひげは怒鳴りつける事もせず、ただ静かに口を開く。
「急な話だ。困惑するのも無理はねェ」
二十歳を前に突然降ってわいた縁談の話を、自分の中で消化しようと足掻く娘を叱り飛ばすような男ではない。ただ静かに、心は決まったのかと、尋ねた。
「親父、あたし、赤髪と結婚しても構わないわ」
その言葉に、白ひげは意外そうな表情を浮かべた。
、オメェ…本当にそれでいいのか?」
はっきりとは口にしないが、そう尋ねる親父にはきっと、自分の心は知られているのだろう。
それでも彼女の意思を尊重しようとしてくれているのか、白ひげからはそれ以上を追求しようとする言葉は無い。少しでも甘い言葉を聞けば簡単に揺らぎそうになる決意を胸に秘めた彼女にとって、それはとても有難い事だった。
「いいのよ、親父。もう、決めた事だわ」
表情を固くしたままそう告げる娘の姿に、白ひげは小さく息を吐きながら分かったとそれだけを告げ、彼女を部屋から追い出した。
これでいいのだ、と半ば自分に言い聞かせるようにしながら、は玄関へと向かう。
既にもう、この家にすら居辛くなっていて、出来るだけ外にいたいと思ったからだ。
自宅でありながら組の本拠地にもなっているこの家には、どこにいたってその男の影があって、とてもじゃないが今の彼女にはそれが耐えられそうに無い。
今度は夕飯までには必ず戻るから、とすれ違ったハルタという若い幹部に告げて門を抜ければ、目の前に一台の車が停まっていた。
何も極道の家の前に停める事はないだろうと思ったが、それでも自分には関係の無い事だと思ってその横を通り過ぎようとすると、不意に車の窓が開いて声を掛けられる。
「暇なのか?お嬢さん。時間があるなら少しおれに付き合ってくれないか?」
「赤髪…」
運転席から顔を覗かせて気さくに声を掛けてきた人物に、はそれ以上の言葉を失ってただただ呆気に取られるばかりだった。
四話は裏に収録してあります。
[2015年 10月 23日]